【第十三屆海內外台灣國是會議】
島嶼有事 重探印太安全戰略 主題演講 I
安倍昭惠夫人
前任日本內閣總理大臣安倍晉三遺孀
日本立教大學碩士
各位好,我是安倍昭惠。
剛才受到如此熱情的介紹,又能夠在這麼多朋友面前說話,我倍感榮幸。這次是承蒙台灣獨立建國聯盟陳南天主席,以及台灣安保協會謝若蘭理事長的邀請,也因緣際會參與由世界台灣人大會程韻如會長與台灣國家聯盟吳樹民總召集人所主辦的「海內外台灣國是會議」。我從櫻花飄落、綠意盎然的東京出發,來到台北,沒想到這裡早已是一片夏日氣息,讓我非常驚喜。
其實,今天在座的各位,與我之間或許透過我丈夫,也多少有些緣分可言。先生在第一次卸下首相職務之後,曾受邀參加台灣安保協會舉辦的研討會,那是他闊別多時再訪台北。
1990 年代他剛成為國會議員的時候,他作為自民黨青年局成員與局長曾數度訪台,並與當時的總統李登輝先生建立起深厚交情。之後就很難有機會再來,那次是他真的久違再次訪問台灣,我記得他是帶著滿心期待地出發的。
當時與他同行的,還有後來當上首相的菅義偉先生。黃昭堂先生與羅福全先生對他們照顧入微,在宴席上,也促成他與當時的民進黨主席蔡英文女士、以及蕭美琴女士的會面。那次的相遇,是偶然還是必然,或許沒有人能說得準。不過後來,先生有幸再度出任首相,蔡英文女士也當上總統,讓我覺得那次的相遇,是一場讓日台之間得以建立起順暢溝通的美好開端。
如今,黃昭堂先生與我丈夫都已經不在人世,但不論是今天在場的各位、蔡英文前總統、賴清德總統,還是許多朋友,都會懷念起他,與我分享過去的點點滴滴。每次來台,我都會有種彷彿他還在這裡的感覺。
其實年輕時,我也曾與先生和家人一起來台灣旅行。那已是三十多年前的事了,雖然我幾乎只記得當時無論吃什麼都非常美味,每一餐都讓人期待萬分,但那是我們夫妻倆年輕時為數不多的旅行回憶。而且,安倍家與岸家一向與台灣保持密切的交情,也讓台灣成為我和先生心中既特殊又珍貴的地方。
老實說,雖然這次受邀上台發言,但我既不是安全保障方面的專家,也不是政治人物。不過,託我丈夫這一位在任最久的首相的福,讓我得以見識許多人,如今也還不時受到邀請,在各地奔波參加活動。
二月時我曾造訪印度、泰國和台北,但回到東京羽田機場時不小心滑倒了,原以為只是撞傷,因為隔天還要再度前往印度,所以忍痛撐著。
回到日本之後去醫院檢查,才知道原來是骨盆出現裂痕,醫生診斷說是骨盆骨折,並囑咐我要「好好靜養」,所以直到前些日子我都還坐著輪椅生活。雖然現在已經大致康復,但身邊人還是很擔心我,勸我取消台灣行,不過,我告訴他們:這是對我與我丈夫來說都意義重大的地方,有台灣這麼多溫暖的朋友,一定沒問題。
說到這裡,我想起在高雄有我先生的銅像。前年夏天我也曾去過,我深深感受到有非常多人悉心守護著那座銅像。改天我若想念他的面容,我一定會再去高雄。
前陣子我也聽到一個令人驚喜的消息。據說台灣的社會科學名校政治大學,將在今年秋天設立「安倍晉三研究中心」。我丈夫一向懷著強烈心願,希望能讓日台關係進一步變得更好。雖然把他的名字冠在研究機構上,讓我覺得有些不好意思,但我想如果這能促進日台之間的學術交流、讓彼此理解更加深入就太好了。
現在的台灣與日本,社會都面臨劇烈轉變。我先生時常說,台灣仍保有許多日本人早已遺忘的價值觀與精神,這一點他極為欣賞。而教會他這些的人,正是他像父親、也像恩師般敬重的李登輝先生。如果不怕誤解讓我放膽說的話,或許我先生心中一直憧憬著李登輝先生所展現出的,那種「已經在日本消失了的日本人精神」。
我在一旁看著他們,確實感受到他倆之間有一種深厚的緣分。2007 年,李登輝先生來訪日本,想要走一趟《奧之細道》,同時也希望能參拜安置著他哥哥英靈的靖國神社。當時我與丈夫同行正在德國出席峰會,身為首相的他聽聞此事後曾對我說:「以前見到李登輝先生的時候,他說:『我過去是帝國陸軍的學徒兵,曾經歷東京大空襲,而我的哥哥則戰死在菲律賓,現在供祀在靖國神社,我想去見他一面。這不是政治問題,而是作為人的問題。』他都這樣說了,我怎麼能說得出『請不要去』呢?」雖然先生當時沒有明說,但我想,他應該也在心裡鬆了一口氣。
之後他因健康因素辭去首相職務,但不知道該說是幸還不幸,他也因此才能在自民黨處於在野時期的這段期間,兩度訪問台灣。2010 年,他搭乘羽田—台北松山航線復航的首班機出席典禮。那時候,他的病情已經因為新藥問世而得以控制,內心也漸漸燃起了「再一次挑戰首相之職」的念頭。
剛好那次造訪台北,他終於得以拜訪一直想見的李登輝先生,並在其家中促膝長談。事實上,在日本,不論是當時或現在,首相一旦辭職要回鍋的機會是很渺茫的。但李登輝先生對他說:「你一定要再當上首相,建立國家安全保障會議,並以修憲為目標努力。」這番話對他來說,是極大的鼓舞。
據我所聞,當時原本沒有安排與李登輝先生見面,是今天也在場的金美齡女士與已故黃昭堂先生費盡心力四處奔走,才促成這場會面。
正如我剛才提到的,隔年 2011 年,我丈夫受台灣安保協會之邀,再次來訪台灣。那時,他應該已經下定決心,要再度挑戰首相之位。也在這樣的意義下,他才能與當時最被看好的總統候選人──蔡英文女士,以未來日台領袖之姿,深入交流建立起深厚的關係。我想,這就是所謂的「天意安排」吧。
後來我聽說,台灣社會也在逐步在進行世代交替,但無論如何,對我和丈夫來說,台灣始終是珍貴又特別的存在。這樣的情感背後,我想歸根究底是因為有人與人之間的深厚連結。
由於台灣安保協會的安排,我們得以與蔡英文女士建立友誼。接著在2015 年,她曾造訪我丈夫的故鄉山口縣。當時她正準備投入隔年的總統大選,由於先生因為身為首相而無法親自接待,便由他的弟弟岸信夫代為招待,陪她走訪縣內各地。岸先生就像是一座橋樑,用心促成與蔡英文女士之間良好的溝通。
2021 年 7 月,我先生以那樣的方式辭世。時任副總統的賴清德先生親自趕來參加他的靈前守夜,據說蔡英文總統也立刻指示全力配合。我不是政治人物,無法理解箇中細節,但後來才知道,在現在的日台關係下,現職副總統親赴日本是極為罕見的事。我深深感受到,那些不顧外交上各種規範、匆匆趕來日本弔唁的台灣朋友們所展現的心意,是無比溫暖人心。
也讓我不禁心想——這個世界,果然還是靠人與人之間的連結所成就的。
我個人也非常重視這種人與人的緣分。有幸與李登輝先生的女兒李安妮女士,也就是「Annie」成為朋友。
去年春天,她特地來山口縣為我丈夫掃墓,當時,是我親自開著輕型小車,載她前往墓園。這段經歷好像讓她印象深刻,後來在台灣她還特地借了同一款車來接我。她就像一位親切風趣的姊姊。
李安妮女士也表示,她希望能繼承父親遺志,為日台關係努力;我也希望能延續丈夫的心願。丈夫過世時,曾有人慨嘆說:「日台關係一口氣失去了李登輝與安倍晉三這兩個引擎。」但我想說:不是這樣的!雖然我們微不足道,但我想讓各位知道,如今仍有我們兩人形同姊妹,希望能承接李登輝先生和我丈夫的理念,一步步深化日台關係。
當今世界正瞬息萬變。即便只是從我丈夫於 2020 年卸任首相算起的短短數年間,新冠肺炎的全球大流行就持續了三年之久。俄羅斯入侵烏克蘭、以色列與加薩的戰火也仍未停歇。
日前緬甸與泰國才剛發生大地震,幾乎每年我們都目睹自然災害接連不斷。而最近,美國總統川普宣布關稅新政策,也引發國際局勢的震盪,幾乎可以說是混亂。
面對接連不斷的衝擊,我們是不是被打倒、麻痺了呢?也正因為是在這樣的時刻,我們才更應該回憶起人與人之間的連結,並珍惜這份關係。
日本有句老話:「遠親不如近鄰。」意思是說,即使是親戚,但若遠在天邊,關鍵時刻也未必能相助,反而是身邊的鄰居,更能即時伸出援手,成為真正可以依靠的存在。
套用在日台關係上,日本與台灣雖然是不同的國家,彼此可說是「他人」,但在許多關鍵時刻卻總能互相扶持,可謂是比親戚還親的「近鄰」。
當然,當台海局勢緊張時,美國的支援非常重要,也不可輕忽;但我認為,更重要的是我們作為鄰人,彼此的關係應當更加緊密。
以往,守護國家與社會可能是少數領導者的責任與義務;但在如今這個變化劇烈的世界,必須應對的挑戰實在太多,光靠少數人已難以應付。所以說,要拯救這個快速變動的世界,靠的不是某位超級英雄,而是需要我們每一個人,珍惜人與人之間的連結、讓彼此關係更緊密,一起為這個世界做出貢獻。
無論過去或現在,日台交流正在各領域、各層級上持續推進。我們的故鄉山口縣在前年 7 月,便與台南市締結了交流協定。透過觀光與產業深化雙邊關係固然重要,但我更期待能促進更多人與人的交流。
在這人員交流方面,我尤其寄望於年輕世代。台灣有一個名為「安倍晉三之友會」的團體,提供來台留學的日本學生獎學金。我曾與這些學生見面,發現他們一個個都很優秀,也擁有清晰的問題意識。我期待,這些在台灣學習的年輕人,未來會回到日本、留在台灣,為將來的日台關係注入更多厚實的基礎。
在經濟方面,當前日本也全是台灣半導體的話題。我聽聞在台積電進駐熊本後,帶動了日本國內半導體產業的發展,也加速了日台產業合作。我看到有人呼籲,日本與台灣應推進自由貿易協定(FTA),進一步強化經濟連結。
我不是專家,不敢妄談細節。不過,在我丈夫擔任首相的 2010 年代,日台間簽署了數十項備忘錄,包括漁業協定、租稅協定、投資協定等等。
也有人說,與其放著日台之間沒有正式外交關係而不能簽 FTA,不如像堆積木那樣一塊一塊疊上去,就算沒有FTA 這個名目,也能達成實質效益。
我想,若日本與台灣能重視人與人之間的連結,發揮彼此的智慧,就有很多問題能迎刃而解。
在醫療與公共衛生方面,日台也彼此協助、互相支持。2020 年初疫情剛爆發時,日本真的受到了台灣很大的幫助。那時候台灣以「TaiwanCan Help !」為口號,向世界各地提供醫療物資對吧。我聽聞台灣送來的口罩與防護衣對日本醫療前線帶來莫大助益。當時承蒙相助,真的很感謝。
當台灣疫苗短缺時,我先生曾說:「無論如何都要讓台灣拿到疫苗!」他四處奔走,努力促成這件事。即使到現在,仍有許多台灣朋友對此表達感謝。我真心覺得,先生那份「想為台灣盡一份心力」的想法,確實傳達到了台灣各方友人的心中,也讓我感到非常高興。如今台灣仍未能加入世界衛生組織(WHO),但我也真心希望,至少應該讓台灣能以觀察員身分參與。
今年,正好是二戰結束 80 週年。
對於這樣一個歷史節點,我認為正是深思許多事情的好時機。
我丈夫曾說過「台灣有事,就是日本有事」。我試著從自己的角度去理解這句話,我想,也許他真正的意思是——「台灣無事,就是日本無事」。乍聽之下似乎是理所當然,但我漸漸會想「台灣平安,日本也會平安」。
在日本,當我們關心與自己親近、重要的人時,會說一句話:「願你平安無事。」那是在祈求對方能過的幸福與健康。我想,我丈夫是想向他深愛的台灣人民獻上這份祈願。因為台灣的平安,是與他自己、與日本,息息相關。他真心愛著日本、愛著台灣,比任何人都盼望著這個地區的和平。
也許,原本應該站在這裡發表演說的,是我丈夫。但自從他過世之後,我總想著,能否替他為台灣做點什麼。可惜的是,我的力量非常微薄,若要讓台灣無事、讓日台也無事,我必須仰賴在座各位的智慧來思考該怎麼做。
如果丈夫仍在世,他一定會與各位一起全力思考解方。我衷心期盼,在座擁有遠見與智慧的朋友們,能一同為日本與台灣的和平與光明未來全力思索。
最後,再次強調一句:我丈夫會說出「台灣有事就是日本有事」,是因為他愛日本,愛台灣。他是真心希望這個區域能和平的人。至今,我非常感激,在台灣仍有許多人懷念他、思念他。也懇請大家集結彼此的智慧,讓我丈夫與我心中共同祈願的——日台關係更加深厚、區域穩定——能夠早日實現。
我的發言或許不夠完善,但今天由衷感謝各位的聆聽,謝謝大家。
みなさまこんにちは。
ただいまご紹介いただきました安倍昭恵です。こんなにもたくさんの皆さまを前にお話しさせていただき大変光栄に感じています。台湾独立建国聯盟の陳南天主席や、台湾安保協会の謝若蘭理事長にお声がけいただき、世界台灣人大會の程韻如會長と台灣國家聯盟の吳樹民總召集人が主催する「海內外台灣國是會議」に叁加することになりました。桜の季節が終わって緑の美しい東京からやってまいりました。そうしましたら台北はもう夏のような陽気で驚いています。
実は、私と今日お集りの皆さまとは、主人を介してではありますけれども、多少のご縁がございます。主人は最初の総理を辞めてから、台湾安保協会のシンポジウムにご招待いただいて久しぶりに台北へ参りました。1990年代に代議士になったばかりの頃は、自民党青年局のメンバーや局長として何度か訪台し、当時の総統だった李登輝先生とも親しくさせていただいておりましたが、その後はなかなか機会に恵まれず、本当に久しぶりの台湾だったので楽しみに出掛けて行ったのを覚えております。
そのときは、のちに総理になられる菅義偉(すが・よしひで)先生もご一緒でしたが、黄昭堂(こう・しょうどう)先生や羅福全(ら・ふくぜん)先生が細々としたところまで気配りしてくださったそうで、宴席では民進党主席だった蔡英文(さい・えいぶん)さんや、蕭美琴(しょう・びきん)さんと引き合わせていただきました。これもまた偶然なのか必然だったのか、真実のところは誰にも分かりませんが、主人はおかげさまでもう一度総理をやらせていただき、蔡英文(さい・えいぶん)さんも総統になられたことで、本当にその後の日本と台湾の関係がスムーズにコミュニケーションを取ることのできる素晴らしい出会いだったと思っています。
黄昭堂(こう・しょうどう)先生も主人ももうおりませんが、今日会場にいらっしゃる皆さまや蔡英文前総統、頼清徳総統のほか、たくさんの方々が主人のことを懐かしがり、思い出話をお話ししてくださるので、台湾にまいりますと主人が本当にどこかにいるような気がしてしまいます。
実は、若いころにプライベートで主人や家族と一緒に台湾に旅行に来たことがありました。もう三十年以上も前のことで、とにかく何を食べてもおいしくて、毎回の食事が楽しみだったことくらいしか覚えていないのですが、夫婦ともに若い頃の数少ない旅行の思い出ということもありますし、なによりも安倍や岸の家族が代々ずっと親しくさせていただいてきたということもあって、台湾は私にとっても主人にとっても特別で大切な場所になっているのです。
今日、皆さんの前でお話を、と依頼されてはいたものの、正直申せば私は安全保障の専門家でもなければ政治家でもありません。ただ、私は日本で最も長く総理大臣を務めた主人のおかげで多くの方々とお会いする機会に恵まれました。現在もそうしたご縁をいただいてあちこちへと飛び回っています。
二 月 に は イ ン ド、 タ イ、 台 北 にお邪魔して東京へ帰ったのですが、到着した羽田空港で足をすべらせてバタンと転んでしまいました。そのときは打撲だと思っていたのですけれども、次の日からまたインドへ行かなければならなくてちょっと我慢していました。そしてまたインドへ行って、日本へ帰って来てから病院へ行ったところ、骨盤にヒビが入った「骨盤骨折」と診断されてしまいました。
お医者さんからは「とにかく安静にしてください」と言われ、つい先日までずっと車椅子の生活を送っていました。もうほとんど大丈夫なのですが、周りの人たちからは心配されて、台湾行きを考え直すように言われたのですけれども、私と主人にとっては特別な、大切な場所ですし、温かい皆さんのいる台湾だから大丈夫と言って出掛けてきたのです。
そういえば、南部の高雄には主人の銅像があるのでしたね。一昨年の夏にも伺いましたが、とてもたくさんの方々が銅像を大事にしてくださっているのを強く感じましたから、主人の顔を見たくなったらまた高雄へ行きたいと思います。
それに、先日はびっくりするようなニュースもありました。政治大学という、社会科学の名門校だと伺っていますが、こちらに「安倍晋三研究センター」がこの秋に設置されるということです。主人はどうにかして日本と台湾の関係をもっともっと良くしたいという強い気持ちを持っていましたから、主人の名前が冠されているのは面映ゆいのですけれども、これによって日台間の学術交流が進み、ますます相互理解が深まったらいいなと思っています。
いま台湾も日本も、社会が大きく変化しています。主人は常々、台湾には日本人が失ってしまった価値観や精神が色濃く残っていて素晴らしいと言っておりました。そうしたことを最も教えていただいたのは、主人が父のように、あるいは師のように尊敬していた李登輝先生でした。誤解を恐れずに言えば、主人は李登輝先生に古き良き、もしかしたらすでに日本にはいなくなってしまった、本当の日本人精神を持った日本人として憧れていた部分があったのかもしれません。
私がそばで見ていて、李登輝先生と主人との間にはやはりご縁があるのだな、と感じたことがありました。2007年に李登輝先生が奥の細道を歩きたいと訪日されたとき、靖国神社に祀られているお兄様のお参りをしたいと望まれました。当時総理だった主人はサミットのためにドイツ滞在中で私も一緒だったのですが、後になって「李登輝先生に以前お会いしたとき、自分は帝国陸軍の学徒兵として東京大空襲を戦い、兄はフィリピンで戦死した。その兄が靖国神社にいるから会いに行きたい。これは政治の問題ではなく人間としての問題だ、とおっしゃられた。そんなふうに言われたら、靖国には行かないでくださいなんて言えないよね」と言っておりました。口には出しませんでしたが、主人もほっとしていたのではないかと思います。
その後、主人は体調のことがあって総理を下りたわけですけれども、何が幸いするか分からないもので、総理を辞め、自民党が野党でいる間に台湾を二度訪問することができました。一度目は2010年に羽田から台北松山への直行便が復活することになって一番機に乗ってセレモニーに出席しました。その頃には主人の病気も、とても良い薬が開発されたことでコントロールできるようになり、もう一度総理にチャレンジしたいという気持ちが少しずつ芽生えていたようです。
ちょうどそんな頃に台北に来て、ずっとお会いしたいと思っていた李登輝先生とご自宅で長いこと色々なお話を伺うことができました。当時も今もですが、一度辞任した総理が再び返り咲ける可能性はさほど大きくありません。ただ、そのとき李登輝先生は主人に「もう一度、総理になりなさい。そして国家安全保障会議を作り、憲法改正を目指しなさい」と励ましてくださり、大きく背中を押されたようです。
あのとき、本来は李登輝先生にお会いする予定は入っていなかったのを、今日会場にいらっしゃる金美齢(きん・びれい)先生と、今は亡き黄昭堂(こう・しょうどう)先生があちこち走り回って段取りをして下さったと聞いています。
冒頭でも申し上げましたが、翌2011年には、台湾安保協会のご招待でもう一度台湾に来ることができました。そのときには主人の総理に再チャレンジするという覚悟はもう決まっていたのでしょう。そうした意味で、次の総統の最有力候補だった蔡英文さんと、日台の次のリーダーとして色々とお話して、親しい関係を構築できたことは、まさに天の配剤だったと言えるのではないでしょうか。
その後、台湾の社会も少しずつ世代交代が進んでいると耳にしますが、主人にとっても私にとっても、台湾は大切で特別な場所であることは変わりなく、その根底にはやはり人と人との繋がりがあるのだと思っています。
台湾安保協会の計らいで蔡英文さんと親しくさせていただいたことで、今度は蔡英文さんが2015年に山口県にお越しになったことがありました。蔡英文さんは翌年の総統選挙にチャレンジする直前でしたし、主人は総理でしたから、残念ながら自分で色々とご案内ができないので、弟の岸信夫さんが山口県の色々なところをご案内してくれました。岸さんが橋渡しのようになって蔡英文さんと良いコミュニケーションが取れるように心配りしてくれていたのです。
2021年7月に主人はあのようなかたちで亡くなるわけですけれども、当時副総統だった頼清徳さんが、お通夜に間に合うようにと飛んで来てくださいましたし、総統の蔡英文さんもすぐに行くようにと言って下さったそうです。私は政治家ではないので、機微なところは分かりませんが、今の日台関係では現職の副総統が日本に来てくださるのは本当に異例なことなのだと後になって聞かされました。私はそうした外交上の取り決めはともかく、押っ取り刀で日本に飛んで来てくださった台湾の方々のお気持ちにこそ、温かさを感じてやまず、やはりこの世界は人と人との繋がりで成り立っていることに思いを馳せずにはいられないのです。
私自身も人と人との繋がりを大切にしたいと思っておりますので、ご縁にも恵まれて李登輝先生のお嬢さんの李安妮さんとは「アニーさん」とお呼びして親しくさせてもらっています。昨年春にわざわざ山口県まで主人のお墓参りに来ていただいたとき、私が軽自動車を運転してお墓に行ったのがとても印象的だったらしく、台湾でもわざわざ同じ車種を借りてきて私を迎えに来てくれたこともある、お茶目な姉のような存在です。
李安妮さんも李登輝先生の遺志を継いで日台関係のためにがんばりたいとおっしゃってますし、私も同じく主人の思いを少しでも実現していきたいと思っています。主人が亡くなったとき、ある方が「日台関係は李登輝と安倍晋三という二つのエンジンを失った」と嘆いておられましたが、そんなことはありません!本当に微力で足元にも及ばないかもしれませんが、李登輝先生と主人の理念を受け継いで、日台関係を深めていきたいと思っている姉妹のような二人がいることを皆さんに知っていただきたいと思います。
現在、世界中が変化に見舞われています。主人が首相を退任した2020年からの短い期間を考えても、新型コロナウイルスのパンデミックが3年あまり続きました。ロシアはウクライナを侵攻し、イスラエルとガザでも戦火が続いています。
先日はミャンマーやタイで大地震が起き、毎年のように数々の自然災害を目の当たりにしてきましたし、ここ最近は、米国のトランプさんが発表した関税について、世界では変化どころか、混乱ともいえる事態が起きています。
次々と起こる衝撃的な出来事に、私たちは圧倒され、麻痺していないでしょうか。このような時にこそ、私たちは人と人との繋がりを思い出し、大切にすることをもう一度考え直すべきです。
日本では古い言い方ですが「遠くの親戚より近くの他人」ということわざがあります。親戚であっても遠方にいては何かあった場合に助けてもらえず、むしろ近くにいる他人にこそ助けてもらうことの方が多く頼りになる、というような意味でしょうか。
これを日台の関係に当てはめれば、まさに日本と台湾は別々の国という「他人」でありながら、何かあれば頻繁に助け合う「近い」関係にあって、もはや親戚以上の関係だとはいえないでしょうか。台湾海峡が緊張しているときに、もちろん米国の助けも必要で大切であり、軽んじてはいけませんが、なによりも近くの隣人同士の関係をもっともっと緊密にしていくことが大切だと思います。
過去には、国家や社会を守るのは少数のリーダーの役割であり義務だったかもしれません。しかし、この変化の激しい世界では、対処しなければならないことが多すぎ、限界があります。ですから、この変わりゆく世界を救うのはひとりのスーパーヒーローではなく、私たち一人ひとりが、人と人との繋がりを大切にし、緊密にすることで貢献していく必要があるのです。
日本と台湾の間には昔も今も、様々な分野のいろいろなレベルでの交流が進んでいます。私たちの山口県も、一昨年 7 月に台南市と交流協定を結びました。観光や産業を通じた関係が深まるのはもちろんですが、やはり人と人との繋がりが増えていくことを期待しています。
人的交流という面でいえば、私がとても期待しているのが若い人たちの交流です。台湾には安倍晋三友の会という団体があって、日本から台湾に来ている留学生に奨学金を出してくれています。私もお会いしたことがありますが、皆さん非常に優秀で、確固とした問題意識を持っていました。台湾で学んだ若い人たちが日本へ戻ったり、台湾に留まったりして、様々な分野で活躍することで将来の日台関係により厚みをもたらしてくれるのではないかと楽しみです。
経済の面でも、いま日本は台湾の半導体の話題で持ちきりです。熊本県に進出したTSMCの効果で、日本国内も半導体産業が刺激され、日台の産業連携が進んでいると聞きます。そして、よりいっそう経済関係を緊密にするために、日本と台湾のFTAを進めてほしいという主張を目にします。
私は専門家ではないので詳しくは言えませんが、2010年代に主人が総理をしていた頃は、漁業協定をはじめ、租税協定や投資協定など数十にものぼる日台間の覚書が締結され、外交関係がないからといってFTAが結べないのではなく、積木のように覚書を重ねていくことによってFTAに頼らなくてもその効果は達成できるという指摘をされる方もいます。やはり、日本と台湾は人と人との繋がりを大切にして、お互いに知恵を出し合っていけば、解決できることもたくさんあるということでしょう。
医療や衛生の面でも日本と台湾はお互いに助け合うことができました。2020年の年明けから始まった新型コロナウイルスのパンデミックでは、日本は本当に台湾に助けてもらいました。台湾では当時、「Taiwan Can Help !」 を 合 言 葉に、世界中に医療物資の提供などを行って助けてくださっていたそうですね。台湾から届いたマスクや医療用ガウンは医療現場の方たちに大いに役立ったと聞いています。その節は本当にどうもありがとうございました。
台湾でワクチンが不足したときには、主人は「なんとしても台湾にワクチンを届けるんだ」と言って、あちこちに声をかけてなんとか実現させたようですが、今も台湾の多くの皆さんから感謝の言葉をいただきます。主人の「台湾のためになんとかしてあげたい」という気持ちが間違いなく台湾の方々に届いていたんだな、と感じ、私もとてもうれしい気持ちになります。現在、台湾は世界保健機関(WHO)に加盟できていませんが、少なくともオブザーバー参加していただきたいと私も思っています。
今年は戦争が終わってちょうど80年が経ちます。節目の年ということで、色々なことをじっくりと考えるよい機会だと思います。
主人が言った「台湾有事は日本有事」という言葉を、私なりに考えてみますと、「台湾の無事は日本の無事」という意味なのだと思います。
当たり前のことのように聞こえるかも知れませんが、「台湾が無事であれば、日本も無事である」ということにたどり着くのだと思いいたりました。
日本には昔から、親しい大事な方に対して「ご無事をお祈りします」という言葉を贈る習慣があります。
その方が幸せであるように、健康に日々をすごせますように、という祈りです。主人は大好きな台湾の人たちの無事をお祈りしたかったのだと思います。そして、台湾が無事なことは、自分にも日本にも大いに関係のあることだと思っていたからでしょう。日本を愛し、台湾を愛し、この地域の平和を誰よりも願っていたのです。
もしかしたら、本来であればここに立って講演するのは主人だったのかもしれません。ただ、私は主人が亡くなったあとは、せめて主人のかわりに台湾のために何かしたいと思ってきました。しかし、残念なことに私ひとりの力はとてもちっぽけなものです。台湾が無事であるために、そして日台が無事であるにはどうしたらいいか、その方策を考えるために皆さんのお知恵をお借りする必要があります。
いま主人がいれば、きっと懸命にその方法を皆様と共に考えていただろうと思います。どうか、智慧のある関係者の皆様に、台湾と日本の平和で明るい未来のためにできることを必死に考えて頂きたいと思います。
最後に、繰り返しになりますが、主人が「台湾有事は日本有事」と言ったのも、日本を愛し、台湾を愛していたからです。この地域の平和を誰よりも願っていたからです。とても有り難いことに、台湾には今も主人のことを忘れずに、慕って下さる方々がたくさんいます。どうか皆さんのお知恵を結集して、主人も私も心から願う、日本と台湾の関係のますますの深まりと、地域の安定が実現される日が来ることを心待ちにしています。
私の拙い話ですが、本日は誠にどうもありがとうございました。