《台灣公論報》1981年7月31日《台灣公論報》創刊,是台獨聯盟的機關報,自勉為「海外台灣人的報紙」,由羅福全擔任發行人,洪哲勝擔任社長。取代機關報《台獨月刊》改為每周發行二次。 這份報紙是「百分之百站在台灣人的立場,為海外台灣人發聲」的刊物。
《台灣評論》「台灣評論」於1992年10月17日創刊,選在距71年前台灣文化協會成立之日,作為創刊日。最初一年,「台灣評論」委由一群志同道合的學者主辦。嗣後,隨著國內政論雜誌銷路的萎靡,遂改由台獨聯盟自編,作為贈送同好和宣揚理念的非商品性刊物。
共和國雜誌從《台灣評論》到《共和國》二千三百多年前,柏拉圖寫了三篇至今仍是學習政治,尤其是政治哲學必讀的著作,其中一篇叫〈共和國〉 (Republic)。柏拉圖寫這篇〈共和國〉時正是古雅典的政治最墮落的年代,他想透過他的政治哲學來挽回雅典政治的健康。 我們把這份刊物定名為《共和國》,是因為我們覺得目前台灣的政治也很不健康,想借用柏拉圖當時寫〈共和國〉的心意。此外,我們覺得台灣人一直渴望台灣早日成為一個新而獨立的國家,「台灣共和國」的誕生也許還要一段時間,但現在有很多人在心中或在行動上為「台灣共和國」催生。我們也想用這份刊物來參加這個運動。
許世楷:台日關係不變 未來只會更好郝雪卿◎中央社記者 日本新任首相安倍晉三就任後不久就出訪中國,是否牽動台日關係?駐日代表許世楷及亞東關係協會會長羅福全今天在一場演講會中,對台日未來關係都抱持樂觀態度,兩人認為,台日都是民主化國家,且有共同的社會價值,台日關係不僅不變,未來只會更好。 台灣安保協會下午在富王飯店舉辦演講會,邀請前駐日代表、現代亞東關係協會會長羅福全以「透視日本安倍新內閣,展望台日新關係」為題發表演說,並由台灣安保協會理事長黃昭堂擔任引言人,返台出席「台日貿易經濟會議」的駐日代表許世楷也到場聆聽。 安倍晉三上任不久就出訪中國,會晤中國國家主席胡錦濤,是否牽動台日既有關係?許世楷認為,雖然日本與中國有技術性及意願性的接觸,但中日之間關係要很密切有困難,且安倍是位保守的政治人物,台日兩國關係不會有大變動。 許世楷進一步表示,台灣是民主化國家,與日本有共同的社會價值觀,中國是獨裁國家,還有人權問題,大家可從日本提供台灣國民免簽證待遇,就可以了解日本對台灣的態度,台日關係不僅不變,未來只會更好。 羅福全也認為,去年在中國大陸曾發生多起反日運動,日本國內的反中情緒也達到百分之六十五,多數認為中國對日本不友善。安倍是戰後政治人物,沒有以前的意識型態,對外關係是以國家利益為導向,同時安倍內閣中親台大臣有九人,親中的只有一人,台日未來關係是樂觀的。 他說,二000年台灣政黨輪替,讓歐美國家見識到台灣民主化成就,在中國壓力下,美、日等國對台獨都說不支持,但並不代表反對台獨,這是一種模糊外交,而台灣目前最大的危機,就是有無決心,維持自由民主體制是台日關係的基礎,台灣要有能力向國際展現決心。
周英明さんを偲ぶ宗像隆幸◎台湾独立建国聯盟中央委員 周英明さん(東京理科大学名誉教授、工学博士)が、去る11月9日に大腸癌で亡くなった。享年73歳。40数年来の台湾独立運動の盟友であり親友でもあったので、私は心の片隅にぽっかり穴が開いたような寂しさを感じている。 1961年4月、文部省の国費留学生として東京大学大学院に留学した周英明さんは、留学生会館の図書室に置かれていた『台湾青年』を読んで、その晩は興奮して一睡もできなかった、と周英明・金美齢著『日本よ、台湾よ』(扶桑社、2001年刊)に書いている。『台湾青年』は1960年に台湾人留学生たちが東京で台湾青年社(現在の台湾独立建国聯盟日本本部)を結成して創刊した日文機関誌である。台湾青年社への参加を勧誘された周さんは、悩みに悩んだ。日本の敗戦後、台湾を占領した蒋介石独裁政権の支配下では、台湾独立を主張するだけでも叛乱罪と規定されており、独立運動の組織に参加すれば、15年から20年の懲役が普通で、死刑に処された人も少なくなかった(独立運動が合法化されたのは、李登輝総統時代の1992年である)。国外で活動したからといって、安全とは限らない。蒋政権の大使館にパスポートを取り上げられるから、外国での滞在は不安定となり、台湾の親兄弟に圧力をかけられるケースもあった。それでも周さんは、台湾青年社に参加した。自由な国に住んでいる台湾の知識人としての責任感と正義感が、彼をそう決心させたのである。 台湾青年社に参加した周英明さんは、さっそく『台湾青年』第11号(1961年10月発行)から、小説「烏水溝」の連載を開始した。台湾青年社に参加して『台湾青年』第9号から編集を手伝っていた私は、周さんの日文がうまいのに驚いた。台湾青年社の中心人物で最年長だった王育徳先生(故人、明治大学教授、文学博士)は、「皆これから修士を取り、博士を取るんだから、日文を勉強しなくちゃいけない。もし、成績が悪くて必要な単位を取れなかったら、日本滞在権を拒否されてしまう。台湾に送還されることにでもなったら、監獄に直行だ」と言って、彼らが書いた『台湾青年』の原稿を手直していた。私もそれを手伝っていたが、周さんの文章は完璧で手直しの必要はなかった。 周さんは「烏水溝」の冒頭で、「昔、台風と激流の台湾海峡は烏水溝と呼ばれ、恐れられていた。それは既に今日の台湾人と中国人の心の溝を予\告していたかのようだ」と書いている。その溝の深さはいまだに変わらず、中国は武力を使っても台湾を統一すると威嚇し、台湾海峡は世界平和を脅かす最も危険な場所の一つとなっているのだ。 26回で「烏水溝」の連載を終えた周さんは、「『烏水溝』を終えて」と題する文章で、この小説を書いた理由を次のように説明している。恐怖政治の下で言いたいことを言えない台湾の台湾人に代わって、彼らの言いたいことを伝えること。登場人物はフィクションであっても、彼等の言動は全て実際に見聞したことであり、その記録を残すこと。若い世代を中心とした戦後の台湾社会の縮図を年代史的に書き、この特異な社会状態を歴史に記録しておくこと。 周英明さんは「烏水溝」を書き終えると、すぐにその続編である「脱出」を16回にわたって連載した。「脱出」では、国民党軍の最前線で、中国大陸から旧式の大砲の砲弾が届く距離にある金門島での台湾兵達の経験が語られている。 この「脱出」の最終回では、兵役を終えて金門島から帰還する船上で、親しい友人同士の二人がこう語っている。 「これから台湾に帰って、一体何が僕らを待っているのか、君は考えてみたことがあるかい? 奴隷の生活がまた待っているだけだぞ ……今まで僕らが孤島に流刑になっていたのだとしたら、今度は台湾という、大雑房の中に戻るだけなのさ」 「僕はただ逃げ出したいんだ。自分の生まれた故郷に、これ以上住んでいくのに堪えられないのだ。……僕は真に人間らしい気持ちになりたいだけなんだ。一度だけでいい、自由な人間とはどういうものか、その気分を味わいたい」 何も反政府的な活動をしなかったにもかかわらず、政治犯として17年間投獄された柯旗化さん(故人)は、『台湾監獄島』(イーストプレス、1992年刊)に自分の経験を書き残した。李登輝総統の下で台湾の民主化がかなり進展してからであるが、私は柯旗化さんと親しくなったので、その寛容で紳士の典型のような人となりは良く知っている。柯旗化さんは、台湾で長年にわたり学生たちの間でベストセラーになった『英文法』の著者でもある。 恐怖政治(台湾では蒋政権の恐怖政治を「白色テロ」と言う)は、反政府活動を行なった者だけを弾圧するのではない。台湾で政治犯として処罰された人達のうち、実際に反政府活動を行なった人は百人に一人もいないであろう。反政府活動を行なわぬよう、恐怖を与えて人民を支配するのが恐怖政治なのだ。正しく台湾は、監獄島であった。特に知識人が弾圧の対象にされたから、彼等はなんとかして国外に逃れようとした。しかし、この監獄島に開かれた窓は狭かった。蒋政権が兵役を終えて留学試験に合格した者(殆どが大学卒)に出国を認めたのは、蒋政権の支配階層の子弟の出国を認めざるを得なかったこともあるが、蒋政権に対して最も強い憤懣を持っている若い優秀な台湾の知識人をやっかい払いしたかったからであろう。 台湾の大学生たちは、この監獄島に開かれた小さな窓に殺到した。大学卒で兵役を務めた者は殆どが将校になり、周英明さんも空軍少尉であった。しかし、彼らに蒋政権が支配する台湾監獄島を守るつもりは少しもなかった(中国が攻めてきたら台湾を守るために戦う、と台湾人の圧倒的多数が本音で答えるようになったのは、台湾が民主化されてからである)。 周英明さんも、この小さな窓口から台湾を脱出した。当時、留学生のために台湾から送金することは認められていなかったから、周さんのように外国の奨学金を貰えた人はいいが、多くはアルバイトで生活費と学費を賄った。アメリカで博士号を取得した台湾人は10万人を超えるが、彼らの多くは皿洗いなどをして生き延びたのである。 台湾監獄島を脱出した台湾人留学生の中でごく一部の強い責任感と勇気を持つ人々が、アメリカ、日本、ヨーロッパ、カナダなどで台湾独立運動に参加した。親しくなった周英明さんからいろいろ話を聞いて、よくも彼のような超優等生が独立運動に飛び込んできたものだと感心したものだ。彼は子供の頃から超優等生であった。それは、学業だけではない。周さんのお父さんは鉄道省の技師で、周さんの兄弟姉妹10人は皆日本で生まれている。周英明さんは8番目の子供として、1933年に北九州の八幡市で生まれた。日本の敗戦で一家は台湾に帰り、お父さんが台湾の国有鉄道に務めたから、官舎を与えられたが、自分の持ち家はなかった。国立台湾大学の学生と助手であった時代の周さんは、多い時は同時に13人もの家庭教師をした。周さんは生まれながらの教育者だったから、それはあまり苦にならなかったようであるが、老いた両親に家を贈ってから留学したいと考えて、それほど猛烈にアルバイトに精を出したのである。私は、こんな孝行息子を他に知らない。 日本に来てから3年目に、周英明さんは同じ台湾青年社の仲間の金美齢さんと結婚した。そして、すぐに娘さんと息子さんが生まれた。周さんの家族に対する献身ぶりも、類い稀なものであった。学生たちに対しても周さんは、その性格と教育の仕方から大きな影響を与えたようである。1970年の安保闘争では、学生たちが学内で狼藉を働き、教師を殴る者までいた。それらの学生達の中には、卒業論文を書くときになり、指導教官を引き受けてくれる教師が見つからず困っている者がかなりいたと言う。「そんな学生が頼んできたときは皆引き受けたよ」と周さん自身に聞いたことがある。娘さんと息子さんも立派に成長して良き家庭を築き、周さんは5人のお孫さんに恵まれた。三世帯住宅で一緒に住むお孫さんにとって周さんは、良い子に育つよう慈しみ導いてくれる素晴らしいお爺ちゃんであった。 今回、病床に周さんを見舞った時、「僕はここでも優等生の患者なんだ」と言って、彼は微笑んだ。周英明さんは、生まれてから死ぬまで超優等生であった。2006年11月
司法政治化危機張葆源◎曾任台灣憲政研究中心副研究員 國務機要費案偵結起訴後,由於第一夫人之犯罪態樣屬於刑法上的身分犯,須以具公務員身分之人共同實施為前提,從而引發檢察官能否偵查總統及法院應否受理等爭議。 近日法界屢從憲法第五十二條闡釋起訴書的合憲性,迭有高見,惟本案若有不易究明之政治行為,則又觸及權力分立。經查,該案確有兩件對外秘密事項,從而檢方能否以「甲君」案之偽證驟然否定其他機密之存在,顯有疑惑;況該行為若涉及高度政治性,是否適合司法機關進行判斷,殊值深究。 憲政學說及判例均承認若干例外是為司法權之所不及,例如「統治行為」。其概念源自德語的Regierungsakt,理論認為某些行使統治權之國家行為具有高度政治性,司法機關不宜審理。美國則稱為「政治問題」(political question),其理論由聯邦法院判例匯聚而成,法院劃定若干國家行為,排除司法權之行使。該理論發展迄今,雖無確切範圍,惟美日等國大抵涵蓋\國內事項和對外關係,諸如國會自律、發動緊急權、領土割讓或合併、外交活動、國家承認、政府承認、交戰團體之承認、國境或公海之確定等。 日本學界對於統治行為理論見解紛陳,早期以肯定說為主流,晚近趨向折衷說(限定範圍)。肯定說指出,某些國家行為具有高度政治性,不宜由法院進行法的價值判斷,因此,與其委由法院作出高度爭議性之判決,毋寧委由國民針對行為主體進行政治批判。該說又分: 一、自制說:宮澤俊義、外間寬等人基於「司法消極主義」,主張法院應行自制,從「法院並未擔負政治責任」進行論述,認為法院應考量「比例原則」,慎重處理高度政治性之國家行為;亦即,法院衡酌涉入判斷可能引致之後果,倘介入將發生重大政治混亂,則應捨大害而就小害,避免捲入政治紛爭。 二、內在制約說:從司法權之結構、性質及司法權與其他國家權力的關聯性進行理解,認為司法權在憲政架構中有其權力限度。入江俊郎強調三權係處於「互不侵犯的對立關係」,統治行為應「保留給國民作最後判斷」;雄川一郎認為「司法權並非萬能,應存在一定界限」,進而推出「縱為法律問題,甚或與國民之權利義務有所關聯,惟因其觸及國政之重大問題,故不宜由法院透過訴訟程序加以解決」。 綜上所述,假設國務機要費之使用涉及高度敏感的國際或兩岸關係,法院即便介入,或恐治絲益棼,難斷真偽,況若強行介入,亦將引發司法政治化之危機,焉能不慎!美國大法官Mr. Justice Frankfurter說過:「憲法曾將大量政府重任,交由行政及立法部門執行,並由人民行使最後之監督加以控制」,今天司法機關若無力釐清葛藤纏繞的政治議題,何不回歸國民主權原理?
陳水扁總統與陳瑞仁檢察官施正鋒◎淡江大學公共行政學系暨公共政策研究所教授 自從兩千年總統大選以來,由於朝小野大的困境,讓陳水扁政府一直無法伸展大志。在國會與行政的角力過程中,除了立法的全力杯葛,也有罷免的嘗試,不過,由於憲法對於民選總統的任期保障,終歸無疾而終。接棒的所謂反貪腐運動雖然一時風起雲湧,然而,街頭運動終究要回歸體制內的化解之道,因此,歹戲拖棚的紅杉軍反而幫助士氣低迷的民進黨稍挽疲憊之勢。 在陳瑞仁檢察官依『貪污治罪條例』起訴第一夫人吳淑珍等人以後,陳水扁總統經過兩天的思考,以記者會的方式全力反擊,儼然化身為辯護律師,也上演一場令人錯愕的不對稱論述競賽。儘管陳瑞仁在大學時代與當今民進黨新潮流人士熟識,或可免於泛藍挾司法之名以行鬥爭之實的指控,不過,在排山倒海般的政治連環套紛圍之下,還是讓選民有很大的想像空間。 對於陳瑞仁來說,不管國務機要費的最後用途為何,只要是拿發票來湊數,就是偽造文書、甚至於是貪污。然而,對於陳水扁來說,由於國務機要費的科目一再變動,在迫切的祕密外交考量下,只好便宜行事,造成行政程序上的瑕疵;阿扁甚至於對檢察官揭露受款機密人士的身分,強烈表達不滿。 撇開政治鬥爭的框架不說,從三權分立的憲政原理來看,總統為了國家安全、特別是涉及外交運作,多少擁有一些行政的特權。我們考察美國的經驗,從開國元勳傑佛遜、林肯、到兩位羅斯福總統,大致是維持強勢總統的姿態,而且也受到百姓的支持;不過,自從尼克森總統陷入水門案件以後,國家機密被用來掩飾罪行,人民對於國家元首的信任度下降,領導者比較不願意堅持行政權百分之百不容侵犯。 相較於美國憲法對於總統彈劾的詳細規定,中華民國憲法的相關條文簡單扼要,也就是第五十二條「總統除犯內亂或外患罪外,非經罷免或解職,不受刑事上之追究」的規定。雖然憲法沒有說明究竟總統在甚麼樣的情況下可以被罷免、或是彈劾,譬如濫用職權、或是干擾司法,然而,為了保護總統一職的崇高地位,總統到底還是可以拒絕一般的司法偵訊。 然而,不管是出於尊重司法的善意、或是突顯司法的濫權,陳水扁總統為了頭目津貼案前往花蓮應訊,已經製造破壞憲政制度的先例,作繭自縛。此回,他再度自動放棄特權以展現親民的態度,恐怕不是見樹不見林,而是犧牲憲法的優越性,打算展開近身搏鬥,也就是說,面對敵人的踏伐、以及同志的逼宮,阿扁唯一的靠山就是民進黨的支持者。 阿扁在記者會上所提的說明,大致上可以歸納出兩種戰術,也就是審計單位在找麻煩、以及「大德不逾閑、小德出入可以」的原則。就前者而言,除了說總統的機密外交款項被在野黨操控的國會大幅削減以外,只好動用總統本身的國務機要費,然而,審計部卻一再變更科目、以及單據的相關規定,而且又未善盡事先告知的責任,擺\明的就是與泛藍一鼻出氣、故意入罪於人。就後者而言,在不得已的情況下,只要錢不是落入自己的口袋,瑕不掩瑜;更何況,其他行政首長都有特支費,就是總統的手腳被綁死了,未免太委屈了。 誠然,「刑不上大夫」是封建時代的看法,而「王子犯法與庶民同罪」也符合民主社會的期待。陳瑞仁或許\想要當包青天,問題是,不只是政治問題不能用法律解決,憲法問題也不能用司法解決。不過,在憲政灰色地帶有待釐清之際,正義的韁繩恐怕還是在百姓的手上。究竟總統的作為有無不當、有無必要、有無罪刑、以及如何處置,民意未必有相同的強度。 在這回戰役,陳水扁似乎是越戰越勇,特別是喊出「扁嫂一審判決有罪就下台」的豪語,彷彿是相當胸有成竹。相對下,最大的受傷者是一向政治盤算精準的新潮流,不要說賠上高雄市長候選人陳菊,差一點連行政院長蘇貞昌都燥進地跟上切割的路子。同樣地,民進黨台北市長候選人謝長廷的揶揄,反映的還是化不開的扁瑜亮情節。 這回如果能度過難關,受盡制度吃人苦投的陳水扁總統,如果無力履行國家定位的政見,應該保握剩下來的任期,至少可以進行制度建立的努力,還是可以在台灣歷史正面留名的。
反軍購 爭授勳陳國雄◎台灣安保協會研究員 在輿論壓力之下,三大軍購案當中的P-3C反潛機與愛國者二型飛彈性能提升案預算終獲通過,雖然值得欣慰,但潛艦預算原編45億元被刪到僅剩2億元,愛國者三型飛彈編列的114億元則被全數刪除,令人深感遺憾。 國家安全戰略的最佳境界,就是有效嚇阻敵人發動戰爭,確保和平;其次則是一旦戰爭爆發,讓敵人無法得逞。若要確保安全與和平,不能憑空期待敵人的善意,關鍵是要倚靠自己的防禦力量,使敵人沒有勝算而「不敢」發動戰爭,或是敵人將因戰損極大而「不願」開戰。很淺顯的道理,堅強的國防可使敵人不敢造次,薄弱的國防很容易引誘敵人侵犯。 綜觀中國軍事現代化的建軍方向,大都發展攻擊性武器,而台灣則以發展戰略守勢的防禦性武器為主。近年來,中國的飛彈攻擊戰力急速提升,在海空戰力方面,中國的新一代戰機(殲十、蘇愷二十七/三十、殲轟七機及轟六導彈機)總數已達五百架,超出國軍主戰飛機約二百架;另完成接收俄製十二艘基洛級潛艦,並加速「093、094」型核動力潛艦的測試進程,目前性能優異的潛艦有三十餘艘,向俄羅斯購買四艘「現代」級艦及自製的「中華神盾」艦052C型均已成軍,台海均勢逐漸向中國傾斜。為因應此一險惡態勢,國防部規劃的三大軍購案深具戰略意涵。 由於中國海軍的反潛能力薄弱,一旦台灣取得8艘潛艦,部署在台海週遭伺機伏擊,中國海軍將難以動彈。如果台灣潛艦部署於南海,也可以攻擊中國的石油運輸能源路線,制肘中國的動武企圖。從國防投資的角度來看,以台灣採購8艘潛艦及12架P-3C反潛機的投資計算,勢將逼使中國增加7.7倍的金額來提升反潛戰力,因而排擠解放軍發展其他攻擊性武器的投資,相對舒減對台灣的軍事壓力。 至於愛國者飛彈的採購案,以現有的反飛彈裝備來估算,僅能防護25%的人口和8%的工業生產力。採購案順利執行之後,至少可以防護70%人口和60%的工業生產力,軍事資產的防衛可從原先的17%提升至75%,大幅降低中國導彈攻擊的效能,嚇阻中國冒然開戰。就戰略意涵而言,愛國者飛彈採購案與分享美軍DSP預警衛星的「即時資訊」有關,透過美軍海外基地的「聯合戰術地面站」(JTAGS),使台灣建構中的C4ISR指管通情系統與美軍連線,在美日同盟的第一島鏈防衛線,台灣不致成為脆弱的戰略缺口,彼此構成實質同盟關係,足以遏制任何軍事盲動。 P-3C反潛機與愛國者二型飛彈性能提升案的原編預算全數通過,足以證明泛藍立委口口聲聲「凱子軍購」的說法毫無根據。如果軍購案的預算編列真是凱子軍購,何不將軍購預算付委討論,刪除不當預算,不但可以防杜弊端,同時也能夠讓軍購案合理進行,確保國家安全。軍購案在程序委員會慘遭泛藍立委封殺62次之後,此次潛艦及愛國者三型飛彈的採購預算同樣沒有討論的餘地,如此毫不講理的作風,根本就是反對台灣具備足夠的防禦力量,替北京日後武力犯台創造有利條件。難怪外國媒體宣稱反軍購的立委,簡直可以獲得中國的授勳。
印度獨立運動初探國立東華大學民族文化學系暨族群關係與文化研究所助理教授 壹、前言 位於南亞的印度是世界四大文明古國之一,從第八世紀起即歷經阿拉伯、土耳其、蒙古與歐洲經商貿易者的經濟覬覦,到十九世紀逐漸被大英帝國的 政治控制並進而完全殖民,並因此在兩次的世界大戰時成為英軍不可或缺的軍用人力與物力資源。而在提起印度獨立建國史上,最聞名的莫過於由甘地 (Mohandas Gandhi, 1869-1948) 與尼赫魯(Jawaharlal Nehru, 1889-1964)所領導的非暴力行動抵抗 (Nonviolent Resistance Action),1947年英國將印度領土分為印度和巴基斯坦兩個自治領地,同年8月15日印度正式獨立,建立成以印度教 (Hindu) 為主的印度共和國 (Republic of India / Bharatiya Ganarajya) 與以穆斯林教 (Muslim) 為主的巴基斯坦 (Islamic Republic of Pakistan / Jamhuryat Islami Pakistan)。當時的巴基斯坦分成東西兩邊,並於1947-1948年、1965年與1971年與印度發生三次戰爭(Brass and Robinson, 1987; Bisheshwar, 1966; Palmer, 1995)。第三次戰爭讓東巴基斯坦成為另一個獨立國家孟加拉 (Bangladesh)。目前巴基斯坦與印度仍然為了喀什米爾 (Kashmir) 領土的主權爭戰中,並互相以增進防禦性武力而進行核子武器試爆,不過於2002年起開啟談判起機制來降低兩國的緊張關係 (Chandra, Mukerjee, and Mukerjee, 1999; Talbot, 2000)。 本文將聚焦探討從英國獨立出來的印度共和國為主,除從政治學上的不同民族主義類型與Manu Goswami (2004) 的《Producing India》(製造印度)一書來看印度外,也將介紹印度獨立建國運動中著名的非暴力抵抗運動,並簡短分析獨立建國後的社會經濟與政治文化為本文結語。 貳、民族主義與製造印度 […]
約堡機場 洪奇昌 715就在十月二十七日,南非的約翰尼斯堡國際機場正式改名為OR Tambo International Airport,以已逝之前非洲民族議會(ANC)主席奧立佛.譚波(Oliver Tambo)為名,以紀念其對於南非解放運動的貢獻。如果,我們一一列舉反對約堡機場改名的主張,跟反對桃園中正機場改名的說法,其實相差不遠。甚至如前新潮流大老洪奇昌本週日發表的「華航正名應理性考量 」鴻文,主張「貿然行事的結果,可能嚴重損及華航以及廣大乘客的權益」,也並未超越南非反對改名人士的論述。 跟台灣一樣,同為移民國家的南非,也充斥著許多外來者的名字。以約翰尼斯堡為例,就是當年兩個殖民官員Johannes Meyer和Johannes Rissik兩人為了表彰自己的功\勳而命名。同樣地,約堡機場在一九五二年剛成立時,也是以曾兩度擔任南非總理、支持種族隔離政策的詹斯姆滋為名的。一九九四年,曼德拉當選首任黑人總統後,下令改為約翰尼斯堡國際機場這個中性名字。當時政府還宣布,往後的機場命名,不會再以政治人物為名。可以想像地,這次當政府打破了自己先前承諾後,白人族群會怎麼看。 一般白人大都不贊成機場改名,他們的說法也跟反對中正機場改名的講法類似:浪費公帑及操弄政治。白人的學校也不贊成將已享有盛譽的校名改掉,讓他們失去歸屬和榮譽感。南非商業航空協會總裁Oliver Stratford更指出:依國際行業規則,國際機場的名字應該與該城市名字相同,約堡機場改名後,將給各航空公司和旅客帶來不利的影響。 但支持改名者如依庫蘭尼市長所說的,「大家不要被這個改革的代價所困擾;因為這是國家走向進步所必須要付出的代價。」中央政府更是主張,南非實施種族隔離制度時期,曾使用政治人物的名字為街道、學校和建築物的名稱,現在若繼續,將對當年受害黑人有所冒犯。 可以想像地,當台灣各地充斥著中山與中正街名、建築物或是「中國」某某公司之際,如果推動比中正機場更深層的正名運動,民進黨勢必面臨更嚴峻的挑戰。 當台灣「七一五學者」喜歡以南非的「真相調查及和解委員會」來檢驗民進黨政府實踐轉型正義時,我們卻發現,弔詭的是,他們一方面批評民進黨政府不處理轉型正義,卻又一方面指控陳水扁挑起族群衝突。也許透過檢驗南非政府的作為,可以讓民進黨再度找回執政的價值。如果因為害怕面對衝突,就不敢展開公民辯論或是改革時,恐怕不僅無法找回真誠的自我,也將沒有勇氣面對未來。
日本國會新選舉制度及相關法制臺灣國內近年來對修改現行選舉制度、改採小選舉區比例代表並立制、二票制、嚴格防止不正當選舉等主張者日多,而且倡導「聯合內閣」、「聯合共治」之聲也時有所聞。日本三年來的經驗和這次以改革相關法制對過去作一番整理的大選,頗值借鏡。
台灣的國家安全保障堪虞鄭欽仁◎台灣安保協會常務監事 引言:帝國主義者眼中的肥羊 張戎及其夫婿合著的「毛澤東:鮮為人知的故事」一書之漢文版,幾經波折,終於在今年(二○○六年)九月出版。有許多人一提起中國或中國史,好像天生下來就已經知道,或是能口誦「論語」的幾句「子日」便是懂得中國文化,尤其在台灣自稱是「中國人」的更是如此。 張戎的書不能不讀,台灣兩千三百萬人若要在自由民主主義下生存,不能不瞭解中國共產黨的基本想法。毛澤東是一個澈澈底底的帝國主義者,張戎引用毛澤東的話說:「我認為,這個世界是能夠統一的。」又說:「再過五年,我們的國家就有條件了。」毛要征服世界,既然認為「這個世界需要統一」,台灣當然不在話下,是在掠奪的範圍。 今年五月,由三十五人組成的日本.讀賣新聞中國取材團出版了一本新書「澎脹中國」,該書記載:中國海軍的創設是在一九五○年四月,即毛澤東之中華人民共和國建國宣言的半年後,當時,甚至今日中國海軍最大的任務不變,即「解放台灣」。中國步步為營,六十年來積蓄能量就是為了掠奪台灣。問題是兩千三百萬人中有許多「阿斗」,想當「安樂公」。以一般來說,國際上強國突然發動侵略,引起國際社會失去「勢力均衡」(balance of power)就會引起劇烈反彈,但對於一個國家長期擴充軍事力,蓄勢待發而不是即時發動戰爭,常會掩人耳目,或因國際上的姑息主義使侵略者瞞天過海。但一旦發動侵略戰爭,國際上即使援助,常緩不濟急:台灣目前就是處在這樣的「轉變期」,但國內政客卻熱衷權力鬥爭,不關心整軍經武,軍購廢弛。古時秦國的商鞅變法,使秦人「勇於公戰而怯於私鬥」,日前我們的情形竟然是「勇於私鬥而怯於公戰」,每一個政客從政都在向中國獻媚,迷失方向。 中國發展核武、導彈 美國曾助紂為虐 張戎的書指出毛澤東的野心在發展核武的飛彈。毛不惜一切代價,也不顧核武試驗失敗會殃及中國人民,一九六六年十月在中國本土進行攜帶核彈頭的導彈試驗;一九六七年六月試爆氫彈成功;一九八○年發射洲際導彈成功。 中國的成功背後有季辛吉的助紂為虐,一九七六年李辛吉告訴毛的使節黃鎮,已經商量好由英國提供軍用航空引擎,張戎描述說,「這項決定解決了中國軍用飛機的『心臟病』問題」。不僅如比,導彈工業也是由勞斯萊斯公司提供,季某還「暗地裡鼓勵英國、法國把嚴格禁運的核反應堆技術賣給中國。」加上嗣後三十多年的軍備發展,中國的核武投射能力已經具備,正威脅著台灣、亞洲,甚至美國及全世界的安全。 台灣在防衛上的疏漏 台灣的國家安全,具體而言,並不受世界列強(國家)之威脅,唯有中國的侵略。尤其是中國核武搭配飛彈的能力增強,一旦有事,美國等國家能否馳援,實是堪虞。 回溯一九九五、九六年的「台海危機」,中國向台灣周邊發射飛彈,用意不止是以演習做為威脅,中國仍伺機侵略,逼得美國派遣兩艘航空母艦艦隊馳援。中國的計畫不得逞,事後更積極發展潛艦、核武與洲際飛彈,目前確實已威脅到美國本土與航空母艦戰鬥群。 美、日之間有同盟,目前日本輿論界擔心日本或台灣一旦「有事」,在核武威脅下美國是否會馳援,尤其是台灣受到攻擊,在第一時間若有「猶豫」後果不堪設想。 日本是沒有核武的國家,過去是依靠美國的「核傘下」,九月二十六日安倍晉三的內閣成立,輿論預先期待安倍能發揮領導(leadership),不因核武威脅而畏怯。京都大學的中西輝政教授指出,中國在福建省與浙江省每年增加一百枚以上的中距離彈道飛彈,目前已達八百枚以上的配備。一旦中國侵台,美軍從日本的沖繩基地馳援,中國若以短中距離飛彈如雨淋攻擊基地,應考慮各種因應對策云云。(參考二○○六年十月的Voice)當然,台灣也應有自己的構想。 台灣的民間,甚至各政黨與政府都欠缺危機意識,也從不針對國家安全與民防的問題討論;對中國問題僅以狹隘眼光討論如何開放三通與經濟,商人的利得優先而忽略國家前途。 台灣必須加強潛艦實力 對於中國的侵略,筆者擬提出兩項政策加以討論,一是加強潛艦的實力,其次是如強防空措施。首先談到前者。 在中國入侵時,台灣希望美國的航空母艦戰鬥群的支援;但美國在美日安保同盟之下需要日本的合作。日本必須加強飛彈防衛體制之外,比美國還要提早出動掃雷艇及潛艦以保護航空母艦戰鬥群。 中國的政策為了對付「航母」以及美國的支援台灣,積極增加潛艦數量,根據岡崎研究所所長岡崎久彥的說法,中國潛艦的數量預計要達到美國的三至五倍的目標。(參考上引Voice)目前中國的潛艦有七十艘,其中六艘是核子動力潛艦;日本潛艦計十六艘(見二○○六年九月六日的Sapio);台灣只有四艘(參考日本防衛廳編『日本的防衛』,二○○六年八月一日出版。) 台灣四周環海,有太平洋、東海、台灣海峽、南海及巴士海峽,尤其後兩者關係台灣的生命線(石油航運),而巴士海峽是容易潛伏而難纏的海域,台灣本身要防衛以及因應「航母」的馳援必須大量增加潛艦以應急需。據專家說法,通常潛艦的三分之一在執勤,維修與訓練也各佔三分之一,有謂目前台灣需要增加三十艘,恐還不夠,如何要與中國預計增加的潛艦數目取得平衡,應重新評估該有的數目。 加強空防,刻不容緩 其次,關於空防問題。中國的急速軍備,十八年來軍事預算以兩位數增加,台灣的防空能力和制空權、加上美國的兩個航母機動部隊,能夠維持優勢到什麼時候,據岡崎久彥的說法已經成為嚴重的問題。 回想「反共抗俄」時代,中國難於取得制空權,台灣沒有空襲之虞,如今與飛彈對峙,防空設備廢弛,過去曾一時在學校挖防空洞也是徒具形式,未能為用,反觀日治時代,小學一年級學生都已知道如何穿防空衣、做好躲防動作,而戰後教有一無所有,這都是親身經歷的事情。 政府機構的防範措施也極重要,美國「九一一」恐怖事件後,對於防禦工程也有新的看法。然以中國來說,北京自取得政權後一直為對抗美國的核武,早已具備防禦設施,這是應該警覺的。 結語:「國民保護法」的借鑑 綜合以上論述,無疑地指出自中華人民共和國成立以來即走向帝國主義,不但要侵吞台灣,更有「統一世界」的幻想。中國人的本位主義(Sinocentric)常活在自己的價值觀裡,而且以其價值觀要支配別人,我們不幸有此惡鄰。但以台灣是一個「海洋國家」,為對抗「大陸國家」的擴張主義,應有自己的戰略觀,即海洋國家與海洋國家聯合,共同對抗侵略。 但不幸的,不僅是要面對中國的侵略,也要面對美國霸權國家的干預,致使在目前的憲法架構下未能成為國際法上所稱的「主權獨立國家」,一方面與中國的糾葛未能排除,一方面未能在國家群成立的「國際社會」、以「正常國家」的身分參與。在美國阻擋台灣成為普遍國家,使台灣要運用外交以達成「國家安全保障」,幾乎不可能;但美國的布希政府固執己見,將使台灣的防衛日愈困難。也就是說,國防與外交的雙翼,台灣已失去一翼(外交)在飛翔。 美國以其國內法的「台灣關係法」維持與台灣的關係,但美國的亞洲政策十年一變,親中路線的抬頭不是不可能,而目前已有徵候。布希政府抑制台灣從憲政上改變而成為獨立國家,但布希政府無法保證下一任美國的總統是出於共和黨,即使是出於共和黨也無法保證政策上能「蕭規曹隨」,這是台灣朝野應該思考的問題,不要只勇於內部鬥爭,誤了國家前途。 又以上所提潛艦與空防措施是關係到國家與社會安全。有關後者,日本政府早在多年前不厭其詳的朝野共議,並聽取專家與專門機構的意見,在二○○四年公布「國民保護法」,並立即付諸實施。同年又由該國的總務省、國際室長礒崎陽輔撰成「國民保護法的讀法」供各方參考,台灣的各級政府與國會應該有這樣的「問題意識」知道自己責任所在,並勇於負起應有的責任。
《鄉訊》源起何康美 《鄉訊》於1971年8月創刊於比利時,同年的十一月成為全歐台灣同鄉會的月刊。一直到1983年第136期後,每年僅發行一次,於1995年11月完全停刊。在這二十四年間《鄉訊》發揮了聯繫散居各地同鄉的心聲,連絡彼此的感情。除了在異鄉充實自己外,並各盡己力貢獻故鄉。停刊十一年後的今天,又由比利時的新生代留學生正準備復刊《鄉訊》,他們的熱情令人激動,更引發了無限的美好回憶。借此機會整理《鄉訊》及其相關資料做一記錄。 60年代開始由台灣來歐洲的留學生漸漸增加,尤其在法、比、德、奧等各國的名大學有20~30名台灣留學生。當時最重要的歷史事件,莫過於1968年在法國的「5月革命」,這個影響最大的學運,衝擊著世界各地(台灣除外)。當時要求政治、社會改革之聲處處皆是。當時身在比利時魯汶大學的我們,也匯集志同道合的同學們,討論故鄉的種種問題。不過即使在國外民主的環境中,校園裡還是遍佈著國民黨可怕的職業學生 。因此,我們的聚會幾乎都以較秘密的方式進行。為了避免防不甚防的「小報告」,而且也希望更多台灣同學的參與:關心故鄉、關心台灣的處境。因此於1970年10月創辦了「魯汶中國同學會經濟研討會」,學術氣氛盛況一時,筆者在此感謝童志諴公使對我們的支持,以政府官員的身份,力主台灣改革的必要性。在1971年3月出版了一本討論會文集結束此會之後,比利時的同學們,接著就公開組織同鄉會並籌辦《鄉訊》的創刊了。 一、鄉訊的創刊 首先,1971年4月24日成立了「比利時台灣同鄉互助會」,為全歐第一個台灣同鄉會,並於1971年8月創刊了《鄉訊》(Courrier des Formosans )月刊。我們開始熱情地收集世界各地同鄉的地址,免費寄送大家所撰寫的文稿,並得到的熱烈回應,更鼓舞了大家的工作士氣。當時影印價格高昂,又沒有中文打字機,更談不上電腦的使用,只好以成本最低的刻鋼版方式,買了一台印刷機。出刊的日子,大家分工合作刻鋼版、油印、貼郵票寄送,工作氣氛有如開同樂會。當時比較活耀的人包括盧修一、吳榮義、施光、陳秉璋、洪育銘以及本人。《鄉訊》初期的資金,完全靠大家打工的收入及善心人士的小額捐款。 70年代初在歐洲台灣的資訊來源缺乏,我們的資訊主要靠書信的往來、免費的中央日報以及外文報刊。《鄉訊》的內容主要以專欄新聞報導與分析、介紹歐洲各地的制度、台灣的鄉土文物,尤以「鄉友動態」部分,更是無形拉近了歐洲各地同鄉間的距離。 在「比利時同鄉會」成立及《鄉訊》創辦後,在1971年間陸續成立了法、奧、瑞、德各區的同鄉會。由於各國同鄉會的串連,於1971年10月3日在法蘭克福近郊的Kronberg,正式成立「全歐台灣同鄉聯合會」及「全德台灣同鄉會」,參加人數共176名。其中:比利時17名、瑞士7名、法國6名、奧地利5名、意大利1名,其餘則為德國同鄉。第一屆全歐理事會理事長兼秘書長:吳修團(德國)、內務:施光(比利時)、外交:陳嘉哲(法國)、財務:楊飛龍(瑞士)、學術:吳尊和(奧地利)。《鄉訊》由第四期1971年11月起,改由「歐洲台灣同鄉會聯合會」發行,但仍然由比利時編發。1972年第十六期由德國陳建福同鄉接手發行,法國編輯並改成影印小冊子。1973年4月每期發行700份,開始收費平寄11美金一年,航空20美金一年。編輯發行的工作由各地同鄉會輪流執行。特別值得一提的是,奧國的胡炳三同鄉全家於1976年3月開始擔負起郵寄的工作未曾中斷,一直到1983年9月精神可嘉。 1977年2月第67期開始使用打字出刊,但由於還不熟悉運作,仍然以手抄及打字並用。1973年起《鄉訊》及同鄉會的運作自此已穩定成熟,與世界各地的同鄉接軌了。 值得一提的是,1974年後文章增多而且更政治化,並由「歐台會」積極地摧生了「世台會」。來自全歐、日本、美國、加拿大等世界各地的同鄉於1974年六月匯聚一堂,熱烈討論故鄉的前途,更凝聚了為台灣的民主運動打拼的決心,大會充滿了熱情、溫馨、士氣十分高昂。唯一的遺憾、更是令人傷感的是:最努力籌備的吳修團同鄉,因癌疾於1973年9月於世台會籌備期間逝世。 《鄉訊》為同鄉會的靈魂,同鄉們可發言吐心聲,並獲得信息,增加對台灣的關懷。因為1975年代表台灣民主化聲音的《台灣政論》遭停刊 ,加上1976白雅燦被判無期徒刑的事件 ,同年的5月《鄉訊》第58期發動了對政府採取「三不運動」:1.不再相信蔣經國所說的話。2.不再參加任何由國民黨主辦或資助的活動。3.不再理睬國民黨的官員及其工作的人。 經過這些事件,1976年開始在台灣的民主運動也開始公開化了,除了白雅燦事件外,尚有郭雨新事件 、楊金海、顏明聖被捕 ,謝東閔被炸等政治事件,日日增加。,從此《鄉訊》登載台灣的消息大幅增加,也成了台灣紀事錄了。1983年9月第136期中止了刊行,1987年至1990年每年的全歐會出刊一號,之後又停刊一直到1994年10月由德國北區再出刊了1995年10月號及11月號,就完全停刊了。 二、同鄉會與鄉訊 同鄉會與《鄉訊》息息相關,60年代的留學生大部份都必須經過留學考試,取得獎學金者,是台灣的菁英,年紀以在三十歲以下居多數。當時的台灣整體經濟尚處於「未開發國家」,留學生除了領獎學金外,還必須打工賺外快,甚至寄錢回家補濟家庭或還清出國費用等等。 台灣的留學生從一個戒嚴,白色恐怖又封閉的台灣,來到一個完全自由的國家,受到無以倫比的衝擊。同鄉會的成立反應了大家心聲,共同的命運感,共同的需要,出錢出力在海外建立一個溫暖的大家庭。目標在於加強同鄉間團結自保,促進鄉誼,為同鄉解決困難、謀求福利。 自從台灣不再具有「中國代表權」,被驅逐出聯合國之後 ,國民黨政府在外交節節敗退 ,無暇為鄉親服務,國民黨政府與僑民之間的距離相去日遠,同鄉會的成立其實無形中分擔了政府護僑保民之責;在故鄉危急存亡之秋,消除鄉友們自掃門前雪的冷漠感、激發鄉友們對故鄉國事之參與討論,進而以行動表現對台灣前途的關切與愛護之決心。 國民黨政府對各地台灣同鄉會的正當態度應該是感激、鼓勵、贊助或支援,但事實上,卻是只有嚴重打壓,滲透同鄉會及利用學生,以各種打「小報告」的方式恐嚇同鄉。因此更激發了大家對國民黨政府的反感。同鄉們這時更加團結,自動自發,不靠任何團體的補助、不受大使館的利誘、反抗一些鬼鬼祟祟的威脅,並以光明磊落地活動。《鄉訊》是同鄉們的共同園地,以容納各種不同相對的真理思想,為最明確的立場,已因此部份的積極鄉親被「特別關注」或列入「黑名單」。 70年代及80年初同鄉們的精神:樸實、誠懇、無私、正義、愛心、熱情、積極、團結、責任感、使命感、榮譽感,以任何一句形容詞來說明,決非言過其實。會長及幹事雖全經過選舉產生,但以輪流的制度,沒有惡性競爭的局面;鄉務完全是義務的。每年一次的全歐大會,分別在各國輪流主辦,但以在德國的次數最多,因為德國是鄉親最眾多的地方。每年為期三天二夜的聚會都利用最廉價的青年會館,住宿在八人一間上下舖,可想像夜間的鼾聲大起,此起彼落的「交響樂」,但大家仍然在隔天精神奕奕的參與大會。《鄉訊》所擔任的任務,除了報導大會的實況,並公佈大會及各地分會詳細的收支帳目,可看出當時大家對公共事務執行的負責精神。 留學生的變遷甚多,學成歸國或遷移他國, 因為在歐洲就職機會少,長期居留者不多;即使留在歐洲的人,大都以自行開業為主。1975年成立了「意大利台灣人招待所」免費招待「願身為台灣人的真正台灣人」。(筆者曾與葉菊蘭及魏耀乾二家人接受陳主加一家人的熱情招待);同時,在奧國一群成業的鄉親成立了「奧地利台灣人基金會」, 不論是獎勵學術活動,還是積極從事台灣民主運動等,它們慷慨地支助同鄉的需要,實在令人感佩。 80年代以後來歐洲的留學生增多,台灣已進入「錢多淹腳目」的時代,一般的學生生活較為富裕,氣氛有重大的改變,尤其對公共事務的冷漠。同鄉會的運作遭遇種種困境,尤以世代的代溝為最。魯汶的學生幾乎沒人參加同鄉會,加上其他因素,比利時同鄉會也因而停頓一時。其他地區也有同樣狀況。最令人興奮的是於1994年4月27日「留法台灣同學會」的成立,創會會員20多名(鄭麗君即為其中一人),會刊《台灣賦格》並活躍一時。隨著大部份成員的回國等,此刊物也因而曇花一現地結束了。但是值得一書的是,1995年元月第一次成立「英國台灣僑民協會」,為歐台會添加了生力軍。 《鄉訊》1995年3月號登載德國林本添同鄉的文章〈論名正言順成立台灣協會之必要〉引起共鳴。1996年開始正式使用「全歐台灣協會聯合會」簡稱「歐台會」,名國只於台協會加上當地國國名。雖然遊說歐洲以外的國家改用同名,但沒成功。不過「歐台會」仍以此新名稱參加「世台會」,一直使用到現在。《鄉訊》雖然在1994年10月號已進入現代化的電腦作業運行,但很遺憾地,卻在1995年11月號完全停刊了!從此也失去了同鄉們的論壇天地,也因此失去與各地鄉友的動態消息。 《鄉訊》停刊的主要原因是,時代在改變、同鄉會的成員結構也變了,加上當時旅歐各地關於台灣資訊來源的獲得,已經可以由台灣的各種黨外雜誌、美國的《公論報》、《太平洋時報》及《美麗島》的復刊。大大地影響《鄉訊》內容的「新鮮」感以及時限等問題。 E世代的今天,大部分學生物質生活較富裕,具有手機電腦,加上訊息取得便利,有更好結合在一起的工具,在《鄉訊》復刊的前夕,深深期待這一群具有理想、熱誠的青年學子,發揮各自所長。我們以真誠、感激的心情,祝福全體有心人士抱著堅忍、不屈不饒的精神,實踐新時代的願景。
賦予語言權利 促進族群語言生機張學謙◎台東大學華語文學系副教授 民進黨政府自稱是本土政權,又號稱是人權立國,不過,對於族群語言權利的維護卻漫不經心,令人失望。據報載,九月七日行政院長蘇貞昌在行政院會表示反對以公權力推動語言,也不贊成語言獎賞制度的建立,看來『國家語言發展法』的制定大概遙遙無期,陳總統的競選支票又要跳票了。 蘇院長顯然不了解現代語言人權的發展,忽略了政府在語言復興的過程當中,可以扮演相當重要的角色。人口、政經勢力和制度性的支持是影響族群語言的延續力的三大因素。弱勢族群人口單薄,缺乏政經勢力,只能依靠政府提供的制度性支持,進行語言復興的工作。 政府能提供的制度性支持最重要的是語言權利的保障和獎賞制度的建立。這些都是『國家語言發展法』應當處理的事項。蘇院長認為推動語言不須公權力,就表明了民進黨政府不打算積極的促進語言權利、維護本土語言生存。 語言權利和語言保存息息相關。這也是為什麼面對母語流失,先進國家常透過賦予弱勢族群語言權利以確保族群語言活力。弱勢語言缺乏強勢族群語言所享有的語言權利,無法在公共場合使用,造成族群語言活力不足,弱勢族群常被迫放棄母語,轉向強勢語言。語言的流失或死亡實在是語言不公平的結果。要是無法保障弱勢族群的語言人權,使之得到公平的對待,弱勢語言終將滅亡。 加分優待等語言獎賞制度也有其必要性。缺乏實用價值常常是弱勢語言流失的主因。一個語言要是欠缺尊嚴、財富和法律權力,常會讓人瞧不起,其語言使用者一有機會就會放棄母語,轉用能帶來實質利益的強勢語言。換句話說,要促進母語保存就得提供能提升語言工具性價值的語言獎賞系統。母語需要成為個人的資源,才能促進母語保存。原委會前主委尤哈尼曾主張要「以功利的箭復興母語」就是這個道理。建立語言獎賞制度,讓母語學習成為學生的資源,可以促進語言保存,也可以糾正母語沒有用的偏見。
靖國神社與中國戰犯鄭欽仁◎台灣大學名譽教授 日.中問題一籮筐 北京政權與日本的糾紛不斷,有教科書問題,歷史認識問題,日本對中援助問題(ODA)、釣魚台領土問題以及靖國神社問題。中國強迫日本政要(特別是首相)不得參拜祠有A級戰犯的靖國神社,但神社之參拜與日本傳統的信仰以及與皇室有密切不可分割的關係。外交家常引用一個詞彙守faux pas(法文),意思是走錯一步,整個脫線,目前的中國即是如此;但其霸權心態,用自己的觀點支配別人,鬥爭別人的習性難改,但其鬥爭的行為確實達到某種效果,使日本國內「懼中派」、「中國派」想以妥協的手段求饒,使日本國內的輿情分裂為二,中國也自以為得逞。可是日本國民對中國反感者日增,中國擔心日本停止經濟援助(ODA)。 台灣與中國不同;對過去發生的不幸事件常常是事過境遷,也就不再計較,故對蔣家的暴政與其家族的胡作非為也不太計較,這一點與中國擴大渲染中日戰爭的情形大為不同。話說回來,台灣與東京的距離很短,雖然只有三小時的飛程,但對不同文化的特徵也應該有所瞭解,以增進彼此的關係。 日本對戰歿者的態度與奉祀中國兵 第二次世界大戰日本戰敗,國際上開創未曾有的新例,審判戰敗者的戰犯,日本的東條英機等被列為「A級戰犯」處以絞首刑。有些國家的媒體誤以為死者埋在「靖國神社」;但神社是不埋葬死者的。 A級戰犯的七名骨灰並沒有交給遺族,聯軍(GHQ)在火葬場未儘拿走而僅存的一壼份骨灰,由一位律師祕密拿出來,現在葬在熱海伊豆山的「興亞觀音」園內的「七士之碑」之下,這慰靈碑是吉田茂寫的。 興亞觀音不只祭祀日本的將兵;由於松井石根大將的緣故,「七七事變」戰鬥死亡的中國人也奉祀在那裡。 另外,在大阪有重願寺,其中有供養塔,供奉因太平洋戰爭與日本爭戰而死亡的澳洲、英國將兵,每年有一次的法會。 以上的情形關係到日本人的宗教觀。上智大學名譽教授渡部昇一認為,日本對於為戰爭而死,不論是敵我,反正都是死了,所以不論敵我的將兵都加以祭祀。日本外務大臣麻生太郎認為對死者的感覺「皆佛樣」;從來也不會挖人墳墓、曝其屍。我們讀中國史,幾千年來常有曝其屍之類的事發生;就說二二八事件罷:無故被槍決的人,竟放幾天不容收屍,讓其暴露,風吹雨打。 古文明中有神話信仰,但後來因各種世界性的宗教興起而中斷,但日本的皇室與古代神話結合在一起,這是日本特有的神道,故神道的神社奉祀皇室關係者,也祭祀對國家有功者。神道有祖先崇拜,祖先即是神。當然,神道之外佛教對日本的影響甚深,也是值得探討的問題。 什麼是「A級戰犯」 第二次大戰日本投降,國際上成立「遠東國際軍事裁判」,一般稱作「東京裁判」,審判戰犯。為了裁判必須制定「規則書」(the rule book),該規則書即是一九四六年一月十九日制定的『遠東國際軍事裁判所條例』,條例第五條規定戰爭犯罪種類,法律條約必須諸條列舉,以英文之慣例,依A、B、C等字母為表記順序:A是「對和平之罪」,B是「通常的戰爭犯罪」,C是「對人道之罪」。 但是世間多誤解,以為A級最惡,B、C等而次之,而且這種印象已普遍化,成為中國不時揭日本瘡疤,棒打日本的藉口。 如果論及那一級的罪狀最可惡,應該是C級。納粹德國的戰爭犯罪最被嚴厲彈劾的是對猶太人、吉普賽人的非人道行為,以及以人種的理由之迫害行為,故東京裁判被列為C級戰爭罪犯。 有佐藤優(Sato Masaru)者,曾經著有「日美開戰的真實-解讀大川周明著『美英東亞侵略史』」一書(小學館出版),他在一篇文章裡認為東京裁判是「勝者的制裁」,只不過是藉裁判形式行報仇之實而已。 他又認為這是對戰敗國的指導都要求其負政治責任;戰爭爆發當時,國際法並沒有明記「對和平之罪」要受制裁的規定。故A級戰犯被追究的,歸根就底只是政治責任。 毛.鄧.江.胡與靖國神社 中國政府批判日本內閣總理大臣參拜有「合祀」A級戰犯的靖國神社,但這些「A級戰犯」沒有一個人被列為C級,也就是沒有被列為「對人道之罪」的罪犯。 諷刺的是許多國家領導人是劊子手,卻崇祀於忠烈祠。蔣介石、蔣經國的二二八事件的屠殺案與白色恐怖,應被列為C級。 北京的紅色中國王朝,自毛澤東到胡錦濤的赤色恐怖,都應被列入戰犯。毛澤東參加韓戰是A級、金門砲戰是B級、屠殺中國人列為C級;鄧小平侵越是A級、對台武嚇是B級、天安門事件是C級;江澤民對台與天安門事件是B、C級;胡錦濤擴充武備、以飛戰瞄準台灣是屬於戰爭的B級。但在西藏的屠殺屬於C級。 台灣受中國的武力威脅,但看聯合國的『人權宣言』與A公約、B公約只是一張無用的廢紙,聯合國的秘書長安南祇不過是一位貪饞污吏,對八百枚飛戰對準台灣的侵略行為不曾置一詞。聯合國成為中國侵略者的舞台,台灣人應該有所警惕。 曰本人的不滿 最後附帶在此一提的是日本人對東京裁判的不滿與國際正義問題。一九四五年八月六日原子彈投下廣島,九日投下長崎。但蘇聯在八月八日對日宣戰,當時日蘇訂有中立條約,蘇聯竟然背信對日宣戰。但在東京裁判時,蘇聯是「原告」。 佐藤優不滿的說:英、美明知日、蘇之間訂有條約,竟然「教唆」蘇聯對日戰爭,所以英、美、蘇應是共犯。蘇聯應該屬於A級的「對和平之罪」而坐在被告席上,同時英、美也應該同列。 結語 從以上所論,無非告訴我們,歷史知道太少是可怕的,對於是非的辨明在無知之下容易被誤導;台灣人不應該隨著中國人為靖國神社問題起舞。 台灣人在喪失本土意識與主體意識的現階段,敵人以錙銖之利作為利誘,在台灣國內塑造買辦的剝削「新階級」,台灣人的「新三腳仔」開始出現,對內部顛覆,戰爭的悲劇似乎難於避免,台灣人除了自清與武備之外還有什麼可選擇的?