安全保障に関する日本国憲法上の自衛権の限界と今後の展望
林彥宏 概要 本論文は、日本国の安全保障に関わる問題の中でも中心的な争点となっている⑴集団的自衛権としての武力行使、⑵安全保障の問題に焦点を合わせ、その法的論点の整理を行うことを目的とする。戦後60数年間、日本国における安全保障の法的論争は、道義的・情緒的な議論が先行し、冷静に基本的概念を理解し整理しようとする努力に欠けていたといわなければならない。政府もこれまで、国会においてその場凌ぎの答弁を重ね、従前の答弁との辻褄合わせに終始してきたため、その見解は「蟻地獄」の様相を呈しているといってもよい[i]。日本国における安全保障論議で最も深刻な問題と思われるのは、それが国際法の常識と余りにも大きく乖離していることである。平成20年6月24日、安倍内閣総理大臣(当時)の下に設置された「安全保障の法的基盤再構築に関する懇談会」の最終報告書が福田内閣総理大臣(当時)に提出された。この懇談会は、時代状況に即した安全保障の法的基盤を求めて議論してきたが、その議論の焦点の一つが集団的自衛権の問題であったことはいまなお記憶に新しい。報告書は、従来の憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認するような政府に求めている。 以上のような問題意識の下に、特に国会審議における関連の政府答弁を参照しながら、集団的自衛権と安全保障の問題点を取り上げ、若干の考察を加える。 キーワード:集団的自衛権、安全保障、国際法、日本国憲法 Key Word: Collective Self-defense, National Security, International Law, Japanese Constitution 1. はじめに 日本国憲法の前文や第98条2項は国際主義・国際法遵守を宣明しており、日本国は常に(国内における「法律による行政」の原則にならって言えば)「国際法による外交」を志向しなければならない。その意味で、安全保障に関する論議においても、国際法と国内法との距離を可能な限り縮めていく努力が何よりも望まれる。憲法をはじめ自衛隊法・国際平和協力法等、安全保障関連の国内法の解釈に当たっては、「国際法協調の解釈[ii]」が要請されている。 国際社会には国内の「最高裁判所」のような司法機関は存在しない。しかし、国際司法裁判所その他の国際裁判所の判例は、国際法における有権的解釈のため基準を提示し、各国に対して、対外的な行動基準を示すものである。対外関係の政策決定に際し(現実に国際裁判に係属する可能性は少ないとしても)、政策担当者はいわば「影の国際裁判所」を常に意識して、「もしこの案件が国際裁判に係った場合、どのように判断されるか」を考えながら行動しなければならない。武力行使、自衛権、法執行活動、平和維持活動といった問題については、コルフ海峡事件(1947年)、国連経費事件(1962年)、ニカラグア事件(1986)をはじめ、核兵器使用の合法性に関する事件(1996年)、サイガ号事件(1999年=国際海洋法裁判所)、イラン油井事件(2003年)、パレスチナ分離壁事件(2005年)など関連の国際判例がある。 日本国の国家安全保障及び国際平和活動については、もとより憲法第9条との関係を抜きにしては考察し得ない。したがって、憲法第9条については、かつてのような過度に理念的な論争を避け、あくまでも実証的な問題の所在を検証すること肝要がある。すなわち、情緒的空論ではなく、現実の国際社会における安全保障・軍事的事態を踏まえた議論が望まれる。 憲法第9条については、これを直ちに憲法改正に結び付けて、あるいは逆にこれを改憲阻止と結び付けて、議論されがちである。しかし、本論文では憲法改正問題は取り扱わない。本論文の目的は、あくまでも現行憲法の下で、いかなる解釈が妥当であるかを考察することである。 2. 集団的自衛権の行使 2.1. 集団的自衛権の「保有」と「行使」 周知のように、国連憲章では第51条で、各国が個別的及び集団的自衛権の固有の権利を有すると規定しているが、これまで日本国では、憲法第9条の下で、個別的自衛権のみが認められるとされてきた。集団的自衛権に関する政府の答弁は、日本国憲法制定期から、日米安保条約改定期を経て、現在に至るまで、一定の変遷が確認される[iii]。しかるに1970年代以後、政府の見解は、日本国が国際法上、集団的自衛権の権利を「保有」していることは主権国家である以上当然に認められるが、この権利を「行使」することは、憲法9条で許されないという形で統一されてきている。ここに言う、「保有」するが「行使」できない、とはどのような意味であろうか。 問題の核心は、集団的自衛権行使の制限が、法的判断のレベルか(憲法解釈説)、それとも政策的判断のレベルか(政策説)という点である。集団的自衛権について、「保有」するも「行使」し得ないとの政府の解釈が固まるのは、1972年5月から10月にかけてである。この問題については従前から政府部内で見解の相違があった。すなわち、集団的自衛権の不行使を、「憲法解釈説」で固めようとする内閣法制局と、「政策説」の立場をとる外務省との間の見解の相違である。佐藤栄作内閣末期、1972年5月の国家審議で、水口宏三議員はこの点を鋭く突いた[iv]。審議の末、同委員の要求で政府が提出した1972年10月14日付政府見解「資料」は、政府部内の相違を調整し統一したものといわれるが、実は基本的なアプローチの対立は止揚されてない。この「資料」は、次のように記されている。 「国際法上、国家は、いわゆる集団自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、……我が国が、国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。ところで、政府は、従来から一貫して、我が国は国際法上いわゆる集団自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界を超えるものであって許されないとの立場に立ている[v]」。 この文章でも、結局、日本国は集団的自衛権を「保有」しており、したがってこれを行使しないのは「政策的に」抑制しているにすぎないとする見解と、その行政は「憲法上」認められないことを強調する立場とを、曖昧なまま混交させているのである。集団的自衛権については、政府として最終的「不行使」を確認した1981年「答弁書[vi]」においても、同様に、この憲法解釈説と政策説が並存している。 この「保有」と「行使」の関係を、我々は如何に考えたらよいか。筆者は、「憲法解釈説」では集団的自衛権の制限をとらえる根拠には乏しく、やはり「政策説」が妥当と考える。何故ならば、憲法第9条は自衛権については何ら規定しておらず、個別自衛権についてはこれを容認し、集団的自衛権についてはその保有を認めつつ行使を認めないという点について、少なくとも規定上からは何らその根拠を見いだすことはできないからである。内閣法制局もその根拠を全く示していない[vii]。したがって、集団的自衛権の行使を認めないのは、やはり「政策的に」これを抑制しているものと考えざるを得ない。国家が自国の有する国際法上の権利(あるいはその一部)について、政策的に「権利行使の一方的停止」(suspend)、ないし「権利放棄」(waive)をすることは自由であり、そのこと自体は、特に珍しいことではない。例えば、どの国家も、自国民が外国で被害を受けた場合、外交的保護を行う権利を「保有」するが、その権利を実際に「行使」するか否かは、相手国との関係等を考慮し、国家が独自に、政策的に、判断するのである。国家が国際法上認めている権利の行使を控えることは、安全保障の分野でもよく見られる現象である。例えば同盟を結ぶ権利は国際法上どの主権国家にも認められているが、中立の地位を条約上(スイスの場合)、あるいは憲法上(オーストラリアの場合)の義務として、これを受け入れている国の場合には、法的に中立を維持する義務を負い、同盟権について、権利能力はあるが行為能力は制限される。しかし、こうしたスイスやオーストラリアの場合と異なり、スウェーデンをはじめ非同盟中立主義を掲げる多くの国々は、「政策」として中立政策をとっているのである。この場合は、同盟の権利からみれば、単にその権利を、政策として、放棄ないし停止しているにすぎない。 集団的自衛権に関する日本国の立場も、この後者に類似していると考えられる。憲法第9条には、個別的自衛権はもとより、集団的自衛権についても、これを禁止するという規定はない。また、日本国は条約で、そうした制約を受容しているわけではない。すなわち、日本国は集団的自衛権については条約上・憲法上でその放棄を規定されているわけではないのである。集団的自衛権を保有するか否かが争われているのであれば、それはもとより「憲法解釈」の問題となるが、その権利「保有する」ということが前提として受け入れられているのであれば、それを「行使」するか否かは、あくまでも「政策」レベルの問題として存在しているものと考えるべきであろう。 政府・内閣法制局がこれまで(特に冷戦期において)集団的自衛権の「不行使」という政策を堅持してきたことは、それなりに理由があったものと思われる。しかし、いつまでもそうした政策を維持することが妥当かどうかは別問題である。したがって、国際情勢の大きな変化に伴い、日本国がミニマムの集団的自衛権の行使を必要とする場合があり得るか否かについて、従来の政策を見直すことに(もとよりそれは、国の基本政策に関わる重大な問題であるから、国民のコンセンサスがなければならないことは言うまでもないが)、憲法上の問題はないというべきである[viii]。 2.1.1. 憲法学説と政府解釈の狭間 日本国憲法自体は、自衛権については、特に触れてない。そこで、この点については、(a)国際法上、主権国家には固有の権利として「自衛権」(個別的自衛権)が認められており、憲法第9条は自衛権(個別的自衛権)については否定していないとする説(肯定説)と、(b)日本国憲法は自衛権概念を放棄し、「平和的生存権」を根拠に、国民の生命•財産等を守る安全保障の方途を示していると解すべきであるとする説(自衛権放棄説)がある。このうち、(a)の肯定説が一般的であり、最高裁も砂川事件判決において、「憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではなく」主権国家に固有の自衛権は否定されていないとし、肯定説の立場に立つことを明らかにした。 村瀬は憲法第9条は自衛権について何ら規定していないので、個別的自衛権を容認する一方、集団的自衛権についてはその「包有」を認めつつ、「行使」を認めないという解釈は、憲法の規定に根拠を求められないと論ずる。そして、内閣法制局もその根拠を示しておらず、「行使」の禁止は政策上のものに過ぎないと主張する[ix]。この議論をする際、村瀬は大石真の論文の参照を求めているので、次に大石の議論をみてみたい。 大石は、「今日、おそらく一番広く読まれているだろう代表的な憲法書」として芦部信喜の『憲法』取り上げ、そこには、「自衛権には、個別的自衛権と国連憲章で新しく認められた集団自衛権の二つがあるが、後者は、他国に対する武力攻撃を、自国の実体的権利が侵されなくても、平和と安全に関する一般的利益に基づいて援助するために防衛行動をとる権利であり、日本国憲法の下では認められない。日米安保条約の定め相互防衛の体制も、日本国の個別的自衛権の範囲内のものだ、と政府は説いてきている」とある。ここに言及された政府の見解を考えるとき、内閣の補助機関として法令審査事務のほかに意見事務を担っている内閣法制局がどのような憲法解釈を示しているかは、既に示したように決定的に重要であるが、集団的自衛権と憲法の関係を論じた内閣答弁書は次のような述べている。 「政府としては、従来から、憲法第9条は、外部からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされるような場合にこれを排除するために必要最小限度の範囲で実力を行使することまでは禁じていないと解しており、他方、集団的自衛権とは、国際法上、一般に、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化される権利と解されており、その行使は憲法上許されないと解してきたところである[x]」。 これに沿って形で防衛白書が記述されていることは、改めて言うまでもない[xi]。この後に、「個別具体的な類型に即し、集団的自衛権の問題を含めた、憲法との関係の整理につき研究を行うため、内閣総理大臣の下に『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会』を開催することとした」旨も記されているが、ここに注意すべきは、内閣法制局の立論が前記学説のように、集団的自衛権は「日本国憲法の下では認められない」とする立場とは異なり、その権利を前提としつつ「その行使は憲法上許されない」とする点である。この点については、防衛法制専門家から、「我が国は憲法上、集団的自衛権を有するか」という「最も重要、かつ根源的な性格」を持つ問いに対する吟味を内閣法制局はしていない、「なぜ最重要論点をバイパスするのか」という手厳しい批判が寄せられている[xii]。 芦部の教科書において「根拠が説かれていない」ことには十分な理由があると思われる。芦部は、日本国憲法も国連憲章第51条の認める個別的自衛権までも放棄したわけではない述べつつも、9条2項の「戦力」解釈との関係で、いわゆる「武力なき自衛権論」をとるとこを明言している。「武力なき自衛権論」とは、芦部によれば、「自衛権はあるといっても、その自衛権は、外交交渉による侵害の未然回避、警察力による侵害の排除、民衆が武器をもって対抗する群民蜂起、などによって行使されるものにとどまる[xiii]。このような「武力なき自衛権」の考え方を集団自衛権にまで拡張することは全く無意味である。ならば、日本国憲法の下で集団的自衛権が認められないのは、芦部においては当然の帰結だったと解される。 山内も述べるとおり、憲法に集団的自衛権を明示的に否認した規定が見当たらないのは、わざわざ規定するまでもないからである[xiv]。同様に、非武装平和主義解釈をとる憲法学者が教科書レベルの記述において集団的自衛権の違憲性について十分な説明をしないのは、わざわざ説明するまでもないからであろう。 他方、政府解釈が根拠薄弱にみえるのは、浦田も指摘するとおり、「全体として憲法9条の規範内容や積極的意義を説明しないまま、一方で憲法第9条によって自衛力がどのように制約を受けているかを論じている」からであろう[xv]。そのため、政府解釈を擁護する場合でも、第9条の規範内容や積極的意義を説明しておきさえすれば、「政府の憲法解釈は非常にシンプルである」と断言することは可能である[xvi]。 以上の考察をまとめてみよう。非武装平和主義解釈をとる憲法学説は(教科書レベルでは特に)集団的自衛権の違憲性については十分な説明しない。他方、政府解釈は第9条の規範内容や積極的意義への言及を欠いたまま、自衛隊の海外派遣を含む第9条との整合性が疑わしい軍事法制の展開を精緻な議論で正当化するため、その根拠はますます不明確になる。「政府解釈は根拠薄弱である」、学説の説明も不十分である」論法は、このような「憲法学説と政府解釈の狭間」を問題化することで、集団的自衛権行使の解禁に道筋をつけようとする論議であると評価できる。 2.1.2. 第9条の法規範性 そもそも憲法第9条は裁判規範たり得るか、すなわち、「第9条の法規範性」(裁判規範性)の問題について触れておくことにする。このような第9条の法規範性については、ほとんどの学説はこれを肯定する。しかしながら、一部に、これに疑問を呈する者もあり、これは以下の2説に分けられる。 ⒜第9条は「政治的マニュフェスト」であるとする(政治的マニュフェスト説)。具体的には、「国の進むべき基本的政策、直ちには実現することのできない理想をかかげる」ものであり、「侵略戦争を再びすべからずという、国民に呼びかけた宣言であり、国外にたいしては、」「各国とも戦争を放棄し、非武装でいくことが、世界平和の実現への唯一の途であるということを示す世界的宣言」であるが、「政府を拘束する意味の規範としては、第二項の規定は、潜在的な自衛権」という「不文の基本原理」の前に「姿を消すことになる」とする[xvii]。 ⒝第9条は「政治的規範」であるとする(政治的規範説)。具体的には、「高度の政治判断を伴う理想がこめられた9条は、裁判規範としての性格がきわめて希薄であり」、「結局、九条は、国の政治過程に向けられ、主権者である国民の政治意思の決定の基礎となる規範としての性格が強く」、すなわち、9条は「政治規範」として、「民主主義の政治過程において拘束力をもち、法令や政府の行為が9条違反か否かは、主として、国会、選挙その他政治的な場において検討され決定される」ものであるとする[xviii]。 さらに、つぎのような説もある。すなわち、⒞憲法制定後の事情の変化により9条の意味が変わった、すなわち、9条について「憲法の変遷」があったとする(9条変遷論)。具体的には、憲法制定後の「国際情勢および我が国の国際的地位」や「国民の規範意識」の著しい変化により、「9条の意味の変遷を認めざるを得ず」、「憲法規範もまた人類の社会生活の規範の一つであるから、事実の世界を無視して文字のみを解釈すべきではない」とする[xix]。 2.2. 日米安保条約と集団的自衛権 従来、政策的とはいえ、憲法第9条の下では個別的自衛権しか認められないということを日本国政府自ら前提としてきたために、日米安保条約における共同防衛の法的根拠についても、日本国側の個別的自衛権と米国の集団的自衛権との同時行使といった不均衡な形でこれを説明せざるを得なかったし、同条約の下での具体的な支援の在り方についても、非戦闘地域、後方支援などの概念の援用によって米軍の武力行使と「一体化」してとらえられないよう努めてきた。もとよりこれらは、それぞれの時代における具体的な国際環境と政治状況の下で、憲法の理念と日米安保体制との整合性を確保しようという努力の結果でもあった。しかし、今日においては、次第にこうした規制が、現実との乖離の前に、再検討を迫られる状況に立ち至ってきているようにも思われる。 2.2.1 想定事例 ⑴平時の共同軍事訓練において、米軍艦船への攻撃があった場合、日本国の海上自衛隊がこれに対する防護措置をとることができるか。このような場合、公海上での軍事訓練は、公海自由に関する他国権利に妥当な考慮を払い(国連海洋法条約第87条2項)、通常、特定された訓練水域・時間帯等を関係国に通知して行うことになっている[xx]、訓練水域内・時間帯内に攻撃が行われる場合には、複数の参加国による個別的自衛権の共同・同時行使で対応が可能と考えられるからである。 ⑵平時ないし周辺事態において、弾道ミサイル警戒のため展開中の米軍艦船に対し攻撃があった場合、これについて日本国が防護措置をとることは、法的どのような評価されるか。仮に米イージス艦が国籍不明の潜水艦によって攻撃を受けた場合、これに対する日本国の反撃行動は、日本国本土の防衛目的展開として個別的自衛権で説明するか、それとも米国の防衛のためとして集団的自衛権で説明する必要がある。 ⑶周辺事態における米軍艦船への攻撃に対する防護の場合はどうような措置を取るか。政府の答弁は「理論的には、我が国に対する組織的・計画的な武力の行使と認定されるかどうかという問題」であって、「我が国領域外における特定の事例が我が国に対する武力攻撃に該当するかどうかにつきましては、個別の状況に応じて十分慎重に検討すべきものであると考えております[xxi]」となっている。 ⑷周辺事態・後方地域支援における米軍艦船への攻撃に対する防護について、政府の答弁は我が国武力行使するという状況はあり得ないので、我が国が集団的自衛権を行使するに至る可能性はない、という回答をし[xxii]。しかるに、近年においては日本国本土に対する事態が発生していない段階で、公海において米艦が攻撃された場合、どんな手段をとるか政府の答弁は変化しつつある[xxiii]。 […]